実在した事件をヒントにどこまで作家は想像力を飛翔させることができるのか。前川裕さんの小説『完黙の女』(新潮社)は、ミステリーの一つの到達点を示す、傑作だ。
前川さんは法政大学国際文化学部教授を長年務め、現在は名誉教授。2012年『クリーピー』で第15回日本ミステリー文学大賞新人賞を受賞し、作家デビュー。『ビザール学園』など著書多数。
前川さんの経歴を彷彿させる、大学教師で作家の前田が、ある誘拐事件に基づくノンフィクション・ノヴェルを書くという設定でストーリーは始まる。
その「篠山君事件」とは、1984年、福岡市の小学4年生、篠山照幸君が自宅で電話を受けたあと外出し、行方不明となった事件を指す。
前田が福岡県警の元刑事・棚橋に取材し、当時の捜査状況を聞き出すという形で進むので、過去と現在の間で時間は融通無碍に行き来する。この叙述形式がポイントだ。
事件発生当時28歳で高級クラブのホステスだった三藤響子が、およそ15年後に照幸君の殺害容疑で逮捕されたことが冒頭で明かされる。響子を中心にストーリーは展開するが、思わぬところに舞台は飛ぶ。
「篠山君事件」から4年後1988年の静岡県浜松市だ。その前年、響子は福岡市から姉のいる浜松市にやって来たということだった。
働いているクラブの客で繊維問屋の跡取り息子、花村喜美夫とたった3回の店外デートをしただけで結婚したが、悪妻ぶりが凄い。いっさい肉体的接触は許さず、数カ月で1000万円以上の大金を浪費、総計1億9000万円となる死亡保険の受取人名義も夫の母親から響子に変更させたのだった。
そして火事で喜美夫は亡くなる。状況証拠的には保険金目当ての放火殺人である可能性が高いように見えたが、客観的な証拠は皆無だった。それよりも家の納屋で発見された子供のものと推定される人骨が、篠山君事件との関連を裏付ける、有力な物証だった。
そこで、福岡県警の棚橋も合同捜査に呼び出され、響子に任意の事情聴取をしたのだった。息詰まるやりとりが始まる。
「私がしゃべれば事件は解決します。でも他に逮捕者が出るとですよ」 「他に誰がおるとね」
それ以降、実質的に響子は「完黙」する。火災死亡事件の捜査も進展がなく、取調べは終わる。
結局、逮捕するのは1998年になる。DNA鑑定の精度が著しく上がったことを理由に、篠山君事件の時効まであと56日のギリギリのタイミングだった。だが、響子は「お答えすることはありません」と完黙を続けた。
福岡地裁の判決は無罪。「被告が篠山君を電話で呼び出し、何らかの行為で死亡させた」と認定したにもかかわらず、「殺意をもって篠山君を死亡させたと認定するには、なお合理的な疑いが残る」という判決だった。
福岡高裁は控訴を棄却し、福岡高検が上告を断念したため、無罪が確定した。
ここまでが2章「沈黙」の途中で、そこから1991年に福岡市で起きた少女誘拐事件に話は移る。その予行演習のような未遂事件で、補導員を名乗る男が中学生の女子生徒2人に「お前ら、万引きなんかしてると、警固(けご)の小学生のように骨になっちゃうぞ」と言いがかりをつけて、連れ去ろうとしていた。
警固の小学生とは、篠山君を指していた。そこから、少女誘拐事件の被疑者の可能性がある男へと前田の取材は伸びる。2つの事件に関連はあるのか? そして、響子が「他に逮捕者が出る」と語っていた言葉は男を意味していたのか?
家庭内のセクシャルハラスメント、幼児性愛など危ういテーマを扱いながら、後半は展開する。
出版社が響子の居場所を突き止め、前田とのインタビューをセッティングする。そこでも「お答えすることはありません」を連発していた響子が、驚くべき言葉を口にする。さらに、とんでもないどんでん返しが待っていた。
本作品は、1984年1月10日に北海道の札幌市で発生した小学生誘拐事件と1991年10月27日に千葉市で起きた少女誘拐事件をヒントにしたもので、「事実関係については、かなりの細部において実際の事件と一致している箇所が多数ある」と末尾に書いている。
また2つの実際の未解決事件に対する筆者の解釈・判断を示すものではなく、あくまでも文学的創造物である、と断っている。
つながりそうにない2つの事件をどう結びつけるのか。最終ページまで真実がわからない凝った構成に息を呑んだ。
BOOKウォッチでは、誘拐事件をテーマにした作品として、2020年本屋大賞を受賞した凪良(なぎら)ゆうさん『流浪の月』(東京創元社)を紹介済みだ。
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