解剖学者の養老孟司さんが、新著『ものがわかるということ』(祥伝社)を発表した。ベストセラー『バカの壁』(新潮社)刊行から、今年でちょうど20年。養老さんは今、何を見て何を考えているのだろうか。
本書は、編集者の「沼口さん」のこんな言葉から始まったという。
「ものがわかるとはどういうことでしょうか?」
わかる、わかったと日頃何げなく口に出しているけれど、いざそう問われると答えられない。この質問に、養老さんはどう答えたのか。
「わかる」とはどういうことなのか、それが「わからない」。じゃあ説明してみましょうか、ということでこの本が始まりました。それなら私が「わかるとはどういうことか」わかっているのかと言えば、「わかっていない」。「わかって」いなくても、説明ならできます。
〈目次〉
第一章 ものがわかるということ
第二章 「自分がわかる」のウソ
第三章 世間や他人とどうつき合うか
第四章 常識やデータを疑ってみる
第五章 自然の中で育つ、自然と共鳴する
養老さんは解剖学の研究で、死体に手で触って向き合ってきた。今続けている昆虫採集と標本づくりも、体を動かしたり、手先で扱ったりする作業だ。第一章「ものがわかるということ」には、こんな文章がある。
学習とは「身につく」こと、身体を伴ってわかることです。
脳には文武両道があります。「文」とは、脳への入力です。本を読んでも、話を聞いても、人に会っても、森を散歩しても、脳へのさまざまな入力が生じます。脳はその入力情報を総合して出力をします。その出力が「武」です。入力だけでは、水を吸い込むだけのスポンジと同じです。出力だけでは、ひたすら動き回っている壊れたロボットになってしまいます。
つまり何かを「わかる」には、外部から脳への「入力」と、脳から身体への「出力」がセットで必要だ。たとえば外国語を学ぶときにも、ひたすら聞いてばかりでは使えるようにならず、話す練習をして初めて使えるようになる。
子どもが成長するときにも、手をじっと見つめて、手を動かしてみて......という入力・出力の繰り返しで、世界を「わかって」いく。ところがこの事実を忘れると、「乳幼児に教育用の動画やビデオを見せるというおかしなことをする」ようになる。本書の書きぶりからは、養老さんが、「わかる」という過程の根本が忘れられていくことに危機感を募らせていることが伝わってくる。
目から鱗が落ちたのは、第二章「『自分がわかる』のウソ」だ。「自分」があるというのは当然のことのように思えるが、実はそうではないというのだ。どういうことだろうか。
ヒトは刻一刻と変化していく。新しいことを学んで考えが変わったり、状況によって気分が変わったり、老いて見た目が変わったり......。でも、脳は変化するものを全部違うものだと認識していては、パンクしてしまう。そこで、一貫した「自分・自己」を固定する。つまり、「自分・自己」はヒトの脳のはたらきによって生まれたものなのだ。典型的な例は名前だ。名前はずっと同じでも、5歳と80歳では見た目が全く違う。
また、「自分らしく生きる」「個性を伸ばす」といった言葉にも、思い違いが潜んでいるという。「自分らしさ・個性」というと心の話のような気がするが、養老さんは「心に個性はない」「心とは共通性のこと」だと言うのだ。以下のように説明されると、納得できるのではないだろうか。
私とあなたで、日本語が共通しています。共通しているから、「お昼を食べよう」と私が話せば、あなたがそれを理解します。(中略)通じるということは、考えが「共通する」ということです。
(中略)感情だって同じです。自分の悲しみを伝えても通じなかったら、とても寂しくなります。
つまり、思考や感情などの心のはたらきは、「共通する」「通じる」ためにあるものなのだ。「考えは人それぞれだ」と思うのは、目に見えないから。伝えてみれば、共感されるか否かにかかわらず「通じる」。それでは、個性とは何なのだろうか。
個性とは身体です。身体は個性だっていうのは、大谷翔平選手を見れば、すぐわかる。大谷選手の身体を真似することはできませんから。
私たちは一人ひとり違う、個性ある身体を持っている。それなのに心の「個性」を欲しがるのは、現代人が「情報化社会」に生きているからだと養老さんは説く。名前をはじめとした、いつも変わらない「自分・自己」は、情報だ。いまや社会は情報で成り立っていて、身体や自然など、刻一刻と変わり脳で扱いづらいものは「ない」ことにされる。でも、情報=心だけだとみんな「同じ」になってしまい、一人ひとりの価値がないように感じる。だから、心に「個性」を求めてしまうのだ。
個性を伸ばすために、好きなことを自由にやることが推奨されがちだ。しかし、養老さんはむしろ、本当の個性とは先生と同じことを繰り返す「反復練習」の先にしかないと言う。日本の古典芸能がわかりやすい。師匠と同じことを10年、20年と繰り返すと、どうしても師匠とは同じようになれないということがわかる。そこに初めて、弟子の個性が見えてくる。
反復練習が不可欠なのは、水泳、スキー、ピアノなど、何を学ぶにも同じだ。解剖も昆虫採集もそうだ。繰り返し身体を動かして「身につけ」て「わかっていく」しかない。
本書はここからさらに、他人、情報、自然との付き合い方へと話を発展させていく。私たちは世界をどう「わかる」ことができるのか。もしかしたら「わかった気になっている」のか、あるいは「わからない」のか。本書自体の内容も、ひと言で「こんな本だ」と言い表すのは難しい。実際に読んで「わかっていく」しかないだろう。一つだけ言えるのは、頭でっかちな「わかった気」から抜け出して、身体で世界を「わかる」感覚を呼び覚ましてくれる本だということは間違いない。
■養老孟司さんプロフィール
ようろう・たけし/1937年、神奈川県鎌倉市生まれ。東京大学名誉教授。医学博士。解剖学者。1962年、東京大学医学部卒業後、解剖学教室に入る。1995年、東京大学医学部教授退官後は、北里大学教授、大正大学客員教授を歴任。京都国際マンガミュージアム名誉館長。1989年、『からだの見方』(筑摩書房)でサントリー学芸賞受賞。2003年、毎日出版文化賞特別賞を受賞した『バカの壁』(新潮新書)は450万部を超えるベストセラーに。小堀鷗一郎氏との共著『死を受け入れること 生と死をめぐる対話』(祥伝社)など著書、共著書多数。大の虫好きとして知られ、現在も昆虫採集・標本作成を続けている。
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