「あなたには、やりなおしたい過去がありますか?」
全英1位。世界43カ国で刊行。BTSメンバーも愛読する世界的ベストセラー小説『ミッドナイト・ライブラリー』(マット・ヘイグ 著)。本作の日本語翻訳版(浅倉 卓弥 訳)が、ハーパーコリンズ・ジャパンより2月9日に刊行される。
ぜひ1人でも多くの人に読んでほしい! そんな思いを込めて、BOOKウォッチでは本作の【試し読み】を連載(全6回)でお届けする。
本作の書評「BTSも愛読する世界的ベストセラー。『もしもあの時......』と後悔している人へ。」はこちら。
■ここまでのあらすじ
ノーラはその日人生のどん底にいた。飼っていた猫を亡くし、仕事をクビになり、いくら悲しくても話を聞いてくれる家族も友人もいない。頭をめぐるのは後悔ばかり。
「私がもっといい飼い主だったら」「両親にも亡くなる前にもっと親孝行ができていたら」「恋人と別れなければよかった」「故郷に戻らなければよかった」
生きている意味などもうないと、ノーラは衝動的に自らの命を絶とうとする。
だが目覚めたとき、目の前には不思議な図書館が佇んでいた――。
図書館の中へと体を滑り込ませると、そこには見渡すかぎりの書架が。ノーラが本に手を伸ばしたとき、背後から誰かにいきなり声をかけられた。以下、その続きの場面から、【試し読み】をお楽しみいただきたい。
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司書
「取り扱いはどうぞ慎重に。よろしくお願いしますよ」
女性はいきなりその場所に現れたように見えた。それまで気配など、微塵(みじん)もなかったはずだった。見れば着こなしも小綺麗で、タートルネックのセーターの、亀の甲らみたいな緑色が、短めの白髪によく似合っている。ぱっと見では六十歳くらいかと思われた。
「あなたいったい誰?」
けれど言い終えるより前に、ノーラも自分が答えを知っていることに気がついた。
「司書、ですかね」
遠慮がちな答えが返ってきた。優しげな顔つきには同時に、聡明さと厳格さとが兼ね備えられていた。よくよく見れば、髪も以前と同じに丁寧に切り揃えられている。そもそも顔の造作の一つ一つが、ノーラの記憶の中にあるそれと寸分違(たが)わずそっくりだ。
今ノーラの目の前にいるのは、かつて高校時代に学校の図書室にいた司書その人だった。
「エルム夫人」
エルム夫人はうっすらとした笑みで応えた。
「かもしれません」
自ずと雨の午後に、あの図書室で一緒にチェスをしていたことが思い出された。特に父が死んだ日の記憶は鮮明だった。やはり図書室にいたノーラに、エルム夫人が、落ち着いた穏やかな口調でその報せを伝えてくれたのだ。父は全寮制の男子校でラグビーを教えていたのだが、グラウンドでの練習の最中、心臓発作を起こしてしまったのだった。
聞かされて三十分あまりもノーラは、すっかり麻痺(まひ)でもしたかのように、何も感じることができなかった。ただ空っぽになり、途中のままのチェスの盤面を見つめていた。あまりに現実が大きすぎ、受けいれることなど叶わなかった。
けれどそのうち、悲しみの感情がノーラに真っ向から襲いかかった。打ちのめされたノーラは、気がつけばエルム夫人の体にしがみついていた。そのまま彼女のタートルネックの上着に顔を埋(うず)めて泣き続けたものだから、しまいには頬も目元も、そこらじゅうが涙と、夫人の服からほつれたアクリルの繊維とでぐちゃぐちゃになっていた。
その間も、エルム夫人はずっとノーラを抱きしめ、赤ん坊をあやすように、そっとうなじの辺りをぽんぽんと叩いてくれた。つまらない常套句(じょうとうく)や偽りの慰めめいたことは一切口にせず、ただ心から心配してくれていた。この時言われた言葉なら、今も忘れてはいない。
「いいこともちゃんとやってきますから。ねえ、ノーラ。だからきっと大丈夫」
母親がノーラを迎えに現れたのは、たっぷり一時間以上が過ぎてからだった。車の後部座席に座っていた兄も、ノーラと同じく石になり、何も感じていないかのようだった。ノーラは押し黙って震えるだけの母の隣の助手席に収まった。〝ママ愛してるわ〟と言ってもみたが、返事が返ってくることはなかった。
「ここはいったい何なのよ? 私はどこにいるわけ?」
エルム夫人がどこか取り澄ましたような笑みを浮かべた。
「もちろん図書館ですよ。それ以外の何に見えます?」
「ここは学校の図書室なんかじゃないし、出口もない。私、死んだの? ひょっとしてこれが死後の世界ってやつ?」
「そうとも言えません」
「全然わからないわ」
「ならば、まずは説明をお聞きなさい」
真夜中の図書館
話すうちにエルム夫人の目にもまた、生気が戻っていくかのようだった。月明かりを映した水たまりみたいだ。夫人は言った。
「生と死の狭間(はざま)には図書館があるのです。この図書館の書架には涯(はて)がありません。そしてここにあるどの本もが、あるいはあなたが生きていたかもしれない人生へと誘(いざな)ってくれる。もしもあの時違う決断をしていたら物事はどれほど違っていたか。それを教えてくれるのです──もし後悔をやりなおせるとしたら、やっぱり違う選択をしてみたいかしら?」
「つまり私は死んだってことよね?」
問い返したノーラにエルム夫人は首を振った。
「ですから違うんですよ。しっかりお聞きなさい。今〝生と死の狭間に〟と言ったでしょう」
そして通路に沿った遥か向こうを曖昧(あいまい)な身振りで示した。
「〝死〟があるのはこの先です」
「ならそっちへ行かせてもらうわ。だって私、死にたいんだもの」
ノーラはそう言って歩き出したのだが、エルム夫人は再び首を横に振った。
「〝死〟とはね、そういうふうにできてはいないんですよ」
「どういうこと?」
「あなたが死に向かうのではないの。死があなたのところにやってくるの」
どうやら私には、死ぬことすらまともにできないらしい。
でもそれはとっくに慣れ親しんだ感覚だった。自分が不完全だという思いなら今やノーラの全身にこびりついていた。人の形をした、永遠に完成しないパズルだ。生もまっとうできなかったうえ、死ぬことにも失敗した。ずっとバラバラのままだ。
「なら、どうして私はまだ死んでいないのよ? 死でさえ私のところにはやってきてもくれないの? こっちは大歓迎なのに。だって死にたいんだから。なのに、こんなところに連れてこられてる。まだ存在してるみたいに見聞きして、考えまでしてる」
「そうね。慰めになるかどうかはわからないけれど、あなたが今死にかけている可能性は、実際とても高いわ。それにどっちみち、この図書館に来る人は、誰もが長くとどまるわけでもないんですよ」
聞いているうちにノーラは、自分のことを〝いろいろなものになり損ねた存在〟としか思えなくなっている自分自身に気がついた。なれなかったものならばそれこそたくさん思い当たった。後悔は繰り返し押し寄せてやまなかった。
私は水泳のオリンピック選手にならなかった。氷河の研究者にならなかった。ダンの奥さんにも、母親にも。ラビリンスのリードボーカルの地位も手放した。本当の善人や本当に幸せな人間になることもできなかった。ヴォルテールの面倒を見てあげることも。
だからいよいよ追い詰められて、せめて死者になろうとしたのだ。けれどそれにすら失敗した。どれほどの可能性を無駄にしてきたかと思うと、ただただ悲しくなった。
「いいですかノーラ。この図書館が存在している間は、あなたは死を免(まぬが)れていられます。ですからあなたはこの場所で、改めて〝自分がどう生きたいのか〟を決断しなくてはなりません」
■マット・ヘイグさんプロフィール
1975年イギリスのシェフィールド生まれ。大学卒業後、マーケティング会社を経営するなど様々な職を経たのちに作家業に専念。フィクション・ノンフィクションを問わず多岐にわたるジャンルの作品を執筆し、その多くがベストセラーとなっている。"Shadow Forest"でネスレ子どもの本賞金賞を受賞。3作品がカーネギー賞候補作に挙げられている。本書"The Midnight Library"は世界43カ国で刊行され、全英1位を獲得。各国でロングセラーに。2020年Goodreads Choice Awardsフィクション部門を受賞した。
■浅倉卓弥さんプロフィール
1966年札幌生まれ。作家・翻訳家。東京大学文学部卒業。2002年『四日間の奇蹟』で第1回『このミステリーがすごい!』大賞(金賞)を受賞。同作は映画化もされ、ミリオンセラーに。他の著作に『黄蝶舞う』(PHP研究所)など、訳書にウォリッツァー『天才作家の妻』(ハーパーコリンズ・ジャパン)ほか多数。
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