厚生労働省は毎年11月を「児童虐待防止推進月間」と定めている。ただ、痛ましい虐待のニュースは絶えない。
桐野夏生さんの長編小説『砂に埋もれる犬』(朝日新聞出版)は、「貧困」「虐待」「毒親」をテーマにした注目作。
まるで報道されたどこかの家庭の内幕を克明に描いたかのようだ。「予定調和を打ち砕く圧倒的リアリズム」に引き込まれ、一気読みした。
「貧困と虐待の連鎖――母親という牢獄から脱け出した少年は、女たちへの憎悪を加速させた」
本書は「第一章 飢餓の痛み」「第二章 ゴミの中のランドセル」「第三章 自分の心だけがわからない」「第四章 地層のように感情は積もる」の構成。
目加田(めかた)のコンビニ店は、神奈川県は多摩川沿いの、工場の多い街にある。そこに時々やってくる、何となく薄汚い少年がいた。
目加田が「どうしたんだろう」と思っていると、少年は言った。「あのう、要らなくなったお弁当ください」。1度は断ったが、本部に内緒であげることにした。
少年の名前は、小森優真(12歳)。1番好きなのはコンビニだ。明るくて、冬は暖かく、夏は涼しい。旨そうなものが溢れている。
「明日から、あのコンビニに行けば、とりあえず飢えからは解放される。そう思うと、心底安堵した」
優真は「居所不明児童」。前の小学校は4年生の半ばまで通ったが、引っ越してからは学校に通っていない。本来なら6年生だが、母親の亜紀が住民登録を怠り、転入できずにいる。
亜紀は、優真と弟の篤人(4歳)を残して数日間いなくなる。アパートに帰ってきて、食べ物を置いて、また出かけて行く。仕事と嘘をつき、恋人の北斗と遊び歩いているのだ。
「とりあえず子供たちには何かを食べさせなければならない。子持ちは、本当に面倒だ」
毎日街を彷徨するうちに、優真には気に入った家が何軒かできていた。亜紀の男たちに虐待されてきた経験から、若い女や女の子のいる家に目を付けている。
優真にとって「理想の家族が住まう、一番気に入りの家」は、熊沢家だ。何度も通って観察を続けた結果、小学生の女の子を意識している。
ある夜、熊沢家の敷地内に忍び込むことにした。物干しにピンクのソックスを見つけると、片方をポケットに入れた。
「咄嗟の出来事で、自分でもなぜそんなことをしたのか、よくわからなかった。(中略)不思議な達成感、いや征服欲を満たされた優真は、暗い道を全力で走った」
ある日、亜紀と北斗がゲーセンで遊んでいるところを目撃した。帰宅した亜紀の脇腹を蹴り上げると、酔っ払っていた北斗が立ち上がった。
「おめえ、優真。調子に乗るんじゃねえぞ」。左の側頭部に拳固を喰らい、優真は昏倒した。その時、亜紀は笑って見ていた。
数日後、目加田の店に現れた優真は、左目の下に青痣があった。目加田が警察に連絡し、児童相談所へ連れて行かれた。
ここから先が養護施設だろうが里親家庭だろうが、優真は内心ほっとしていた。あのアパートは「『うち』という名の牢獄」だったからだ。
「子供だって、堪忍袋の緒が切れることがある。親を軽蔑し、棄てる瞬間がある。(中略)『僕はお母さんが大嫌いです』」
優真は一時保護所から養護施設に移り、中学1年生になった。そんな時、目加田の妻が優真の養育里親になりたいと申し出た。
目加田家にやってくることになった優真だが、内心、何でも見通しているかのような目加田を怖れてもいた。
「自分の中にある暗い衝動を知っているのではないかという戦きがあった。その衝動とは、自分でも得体が知れないものだった。(中略)ピンクのソックスに通じる何かだ」
手を差し伸べてくれる目加田夫妻に救われ、読み手としては安堵した。ところが、転校した中学の同じクラスにあの熊沢家の女の子がいたことから、優真の「暗い衝動」が疼き出し......。
恵まれているのに、何かが足りない。あの「飢えてじりじりする感じ」が湧き上がってくる。母親の愛情を知らずに思春期を迎えた優真の「心の飢え」は、思った以上に修復が難しいのだった。
今もどこかで起きているであろう厳しい現実を突き付けられた気がした。こうなるといいな、という淡い期待は次々と覆される。一体どうなってしまうのか......ハラハラの連続だ。できることなら、続編を読んでみたい。
本書は、「週刊朝日」の連載(2020年2月14日号~2021年2月12日号)を加筆・修正して単行本化したもの。
■桐野夏生さんプロフィール
1951年生まれ。93年『顔に降りかかる雨』で江戸川乱歩賞、98年『OUT』で日本推理作家協会賞、99年『柔らかな頬』で直木賞、2003年『グロテスク』で泉鏡花文学賞、04年『残虐記』で柴田錬三郎賞、05年『魂萌え!』で婦人公論文芸賞、08年『東京島』で谷崎潤一郎賞、09年『女神記』で紫式部文学賞、10年『ナニカアル』で島清恋愛文学賞、11年同作で読売文学賞を受賞。15年には紫綬褒章を受章。著書に『バラカ』『夜の谷を行く』『路上のX』『日没』『インドラネット』ほか多数。
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