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大学院生は誰でも「カフカ」が身近になる理由

博論日記

 大学院生や、これから大学院で学ぼうとしている学生向けの本だ。本書『博論日記』(花伝社)は、フランスの大学院で文学の博士論文を書くために悪戦苦闘したティファンヌ・リヴィエールさんの自伝的な物語。フランスでベストセラーになり、すでに英米、ドイツ、イタリア、スペイン、アラビア語圏、中国などで翻訳出版されているという。各国とも同じような問題を抱えているということなのだろう。

カフカの『審判』に挑む

 タイトルだけ見ると、ちょっと堅苦しい。ところが中身は柔らかい。というのも本書は、いわゆる漫画なのだ。「バンド・デシネ」とか「グラフィック・ノベル」と呼ばれているジャンルに属す。時事的、社会的なテーマをコミカルなニュアンスも交えながらストーリー漫画に仕立て上げる。知的だが、重苦しくない。30分ほどで読めてしまう。日本ではなじみが薄いが、人気があるジャンルなのだという。

 本書の主人公の名はジャンヌ・ダルゴン。大学院の学生。アルバイトをしながら研究生活を続けている。博士論文の仮タイトルは「カフカ『審判』の『掟の門前』における迷走的象徴」。ちょっと小難しい。予定では2010年3月に論文の構成を終え、11年9月に論文を完成、12月に口頭試問のはずだった。しかし、いろいろとアクシデントが起きる。いっこうに博士論文は完成に至らず、精神的にも追い詰められる。

 まずは生活苦。奨学金がもらえず、バイトに時間をとられた。毎日10時から16時まで事務の仕事。週一回、大学で非常勤講師をすることになったが、準備に膨大な時間をとられる。自身の指導教官は人気教授なので、多くの院生を抱えて忙しい。メールで論文の構成案を送っても、返事が来ない。

 そんなこともあって、なかなか論文作成がスタートしない。論文のタイトル自体にも悩む。自分で何度も修正する。足踏みが続いて博士課程も7年目に入ったという設定になっている。

 寝ても覚めてもジャンヌはカフカのことを考えている。しかし、執筆作業は進まない。イライラが募る。同居していた恋人との関係も壊れてしまう・・・。

今やバンド・デシネ作家

 著者のリヴィエールさん自身は、博士課程でアルバート・コーエンの「『選ばれた女』における『愚かさ』の表象」について研究していたそうだ。本書の主人公とはちょっとテーマが異なるが、こちらも難しそうな内容だ。

 ただし、リヴィエールさんは幸運にも絵心に恵まれていた。苦闘の日々を軽いタッチでブログ公開したところ予想外の反響があった。その後、グラフィック・ノベルとして出版。大学院は中退、今やバンド・デシネ作家として活動しているという。

 日本でもオーバードクターが大きな問題になってきた。苦労して博士号を得ても就職先が見つからない。最近は、「ポスドク(博士研究員)」制度の創設で、任期制の研究員になる道も開けているが、根本解決には至っていないようだ。本書はとりわけ就職先が少ないとされる「文学系」をテーマにしているので、日本で類似の立場にある院生には共感を呼びそうだ。

 訳者の中條千晴さんが、巻末で極めて的確な解説をしている。1985年生まれ。自身もフランスの大学の修士・博士課程で学び、2018年に博士号を取得している人だ。現在はリヨン在住。専攻はポピュラー音楽・ジェンダー研究。

 中條さんによれば、本書は単なる「体験記」にとどまらない。主人公を「カフカ研究者」と設定することで、内容に深みが増しているという。主人公自身が、フランスの大学院制度の「不条理」に苦しめられ、周囲から孤絶する。そしてカフカの『城』の登場人物のように追い詰められていく様子がリアルに浮かび上がってくるからだ。博士論文のテーマと、主人公の生活や心理状態が重なっていくことに留意しながら翻訳を心がけたという。なかなか賢い人だと思った。

院生からパン屋に

 中條さんによれば、「院生」が抱える不安と苦悩は、日本もフランスも共通しているところがある。ただし、やや異なるのは、フランスでは院生からパン屋や料理人などに転身する例が山ほどあり、彼らを特に落伍者と見る風潮がないということ。

 本書では、不安に駆られた主人公が、ワインを大量買いするシーンがある。レジのおばさんが、「パーティでもするの?」と訊ねる。主人公が「博論のために引きこもるので・・・」と、まとめ買いの理由を伝えると、おばさんが「あら、私も書いたわ。古生物学だったけど、芽が出なかったわね」とこたえている。日仏の違いを感じた。

 BOOKウォッチでは大学教育関連で、『海外で研究者になる――就活と仕事事情』(中公新書)、『大学教授が、「研究だけ」していると思ったら、大間違いだ!』(イースト・プレス)、『大学はもう死んでいる? トップユニバーシティーからの問題提起』(集英社新書)、『大学改革の迷走』 (ちくま新書)など、グラフィック・ノベルでは『亀裂――欧州国境と難民』(花伝社)、フランスとつながりの深かった漫画家として『谷口ジロー 描くよろこび』(平凡社、コロナ・ブックス)も紹介している。



 


  • 書名 博論日記
  • 監修・編集・著者名ティファンヌ・リヴィエール 著、中條千晴 訳
  • 出版社名花伝社
  • 出版年月日2020年4月25日
  • 定価本体1800円+税
  • 判型・ページ数A5判・192ページ
  • ISBN9784763409232
 

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