本書『孫基禎――帝国日本の朝鮮人メダリスト』(中公新書)の主人公、孫基禎(1912~2002)は1936年のベルリン五輪のマラソンで優勝した長距離ランナーだ。NHKの大河ドラマ『いだてん〜東京オリムピック噺〜』でも紹介されたから、今では大半の日本人は知っている。本書は改めてその人生を振り返ったものだ。
孫基禎についての本は何冊か出ているが、本書の著者・金誠さんは1974年兵庫県生まれ。祖父が戦前、朝鮮半島から日本にわたってきた在日コリアンだ。父はケミカルシューズの裁断工で、母はミシン工だったという。
神戸大学大学院国際協力研究科博士後期課程単位取得退学。博士(学術)。2006年より札幌大学専任講師,准教授を経て、17年より札幌大学地域共創学群教授。専攻はスポーツ史、朝鮮近代史。著書にBOOKウォッチで紹介済みの 『近代日本・朝鮮とスポーツ――支配と抵抗,そして協力へ』(塙書房、2017年) などがある。
本書は以下の構成。
序章 帝国日本・朝鮮民族の「英雄」 第1章 マラソンでの躍進―1912~32年 第2章 ベルリン五輪の栄光―1932~36年 第3章 日章旗抹消事件の衝撃―1936年8月 第4章 帝国日本による翻弄―1936~45年 第5章 解放後の世界で―過去の栄光と呪縛 終章 民族を背負った「英雄」とは
全体として、孫基禎の人生を時系列に沿って追った形になっている。
ベルリン五輪で金メダルを獲得した孫基禎は、日本では国威発揚に利用され、朝鮮では民族の優秀性を示す英雄となる。朝鮮の新聞が孫の表彰式の写真を掲載する際に、胸の日章旗を消すという事件が起きたことはよく知られている。
戦後の韓国では、陸連会長、ソウル五輪開会式では聖火ランナーを務めた。他方で、戦時中に学徒志願兵の募集など対日協力に従事したことも近年明らかになってきたという。
オリンピックはスポーツの祭典といわれるが、実際には多くの選手が国や民族の栄光と重荷を背負うことを強いられている。中でも、際立っていたのが孫選手だった。
孫が優勝した36年8月のベルリン五輪は、ヒトラー全盛期の開催。「民族の祭典」といわれたことからもわかるように、政治と五輪が強烈に結びついた大会だった。
大会後の同年11月には日独防共協定が結ばれる。五輪開催時はまだ大戦前だったが、その足音がひたひた迫り、日本とドイツの緊密さが一段と増している時期だった。
マラソンで優勝した後、孫はヒトラーと対面している。最高レベルの厚遇だ。ヒトラーは「おめでとう」と声をかけ、力強く孫の手を握りしめたという。「日本」の選手がマラソンで優勝したことは、ヒトラーにとっても喜ばしい出来事だった。
本書は当時、ベルリン入りしていた園山亀蔵・島根県体育運動主事の書き残した『渡欧記』の一説を紹介している。「これ以来独逸人の我々日本人を見回す目色が変わってきたような気がする」。
ドイツの宣伝相ゲッベルスの日記も紹介されている。「日本人がマラソンで優勝した! なんたる国、何たる民族だ」。
これらの反応を踏まえて金さんは以下のように記す。
「当時、ベルリンでオリンピックを観戦するドイツ人たちは、孫や南(マラソン3位の南昇龍)が朝鮮人であるという認識は全くなかったであろう・・・彼らの勝利は帝国日本のイメージアップを助け、日本人の優秀性を表す姿として世界の人々の目に映ったのである・・・孫基禎の勝利は日本とドイツの親善に寄与する勝利ともなっていた」
本書ではこのように、孫のベルリンでの勝利が、日本とドイツをより強く結びつけることに大いに貢献したことを強調する。今も昔もマラソンは最も忍耐と精進が要求されるスポーツだ。それを併せ持つ国として、ヒトラーのドイツから日本は高く評価されたのだ。皮肉にも朝鮮人の孫を通して。
一般に、孫については、朝鮮人なのに日本人として金メダルを授与された、という悲劇性にスポットが当たりがちだ。しかし本書は、当時のドイツと日本との関係にも力点を置き、多くのドイツ人に、日本という国をパートナーとして承認させる一因になったという視点から、孫の金メダルの意味合いを捉えなおす。
ベルリンの次の五輪は40年に東京が予定されていたが、日中戦争の激化などで38年の段階で返上を強いられる。39年にはドイツのポーランド侵攻で第一次大戦が始まった。40年9月、日独伊三国同盟、41年6月にはドイツが不可侵条約を破棄して対ソ戦を開戦。呼応するかのように7月、日本軍は南部仏印進駐。12月8日、真珠湾攻撃というのが当時の流れだ。
ドイツがソ連に短期決戦で勝利するという見通しの下に、日本が戦線拡大に突っ込んでいったことは、BOOKウォッチで紹介した半藤一利さんの『なぜ必敗の戦争を始めたのか』(文春新書)』などに詳しい。ドイツがソ連に手こずった事情は『独ソ戦――絶滅戦争の惨禍』(岩波新書)に詳述されている。
先の大戦の主役はヒトラーのドイツであり、その動きを注視しながら、日本はアジア・太平洋の戦線を拡大した。逆に言えばドイツも、日本の力量を見定めながら戦争に臨んでいたことだろう。ベルリン五輪の孫の活躍は、戦争への道を突き進む両国の「親善」に寄与した一面がある。出身地の新義州は現在、北朝鮮。故郷には戻れず、分断国家の悲哀も背負った。
孫の人生については、孫自身が『ああ!月桂冠に涙 孫基禎自伝』(講談社、1985年)で書き残している。最近では、BOOKウォッチで紹介した寺島善一・明治大学名誉教授による『評伝 孫基禎――スポーツは国境を越えて心をつなぐ』(社会評論社)にも多数のエピソードが登場する。孫はベルリンで優勝した後、明治大学に留学していたことがあり、その縁で、スポーツと社会の関係を教えてきた寺島氏が孫の人生を振り返ったものだ。孫と日本のスポーツ界とのねじれた関係、また一部関係者との親密な交友などが明かされている。
このほかBOOKウォッチでは関連で、『日本初のオリンピック代表選手 三島弥彦――伝記と史料』(芙蓉書房出版)、『無冠、されど至強』(ころから刊)、『増補 遥かなる故郷 ライと朝鮮の文学』(皓星社)、『証言集 関東大震災の直後 朝鮮人と日本人』 (ちくま文庫)、『阿片帝国日本と朝鮮人』(岩波書店)、『君は韓国のことを知っていますか?――もう一つの韓国論』(春秋社)、『だれが日韓「対立」をつくったのか――徴用工、「慰安婦」、そしてメディア』(大月書店)、『韓国 古い町の路地を歩く』(三一書房)、『反日種族主義』(文藝春秋)、『韓国を蝕む儒教の怨念』(小学館新書)、『文書・証言による日本軍「慰安婦」強制連行』(論創社)、『「異形」の古墳――朝鮮半島の前方後円墳』(角川選書)、『日本近現代史講義――成功と失敗の歴史に学ぶ』 (中公新書)なども紹介している。
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