ついに岩手県でも新型コロナの感染者が出た。全国では連日1200人を突破し、最高記録を更新している。東京都の小池百合子知事は「これは第二波」という認識を示した。日本のコロナ禍はこのところ、だれが見ても新たな局面に入っている。
そんな中で本書『PCR検査を巡る攻防――見えざるウイルスの、見えざる戦い』(リーダーズノート)が発売されている。コロナ関係の本は多いが、PCRに絞ったものは珍しい。早くもアマゾンの「ジャーナリズム」部門で1位、「感染症」部門で2位にランクインしている。待たれていた本ということになる。
著者の木村浩一郎さんは医者ではない。感染症の専門家でもない。医療ジャーナリストでもない。本書の出版元「リーダーズノート」出版代表、リーダーズノート編集部編集長。編集者、ライター。出版社、プロダクションを経て現職というのがあらましの経歴だ。1961年生まれ。
何か特別の取材意欲や使命感を持って、「PCR」というテーマに取り組んだわけではない。コロナが拡大する中で、世間ではPCRへの関心が高まっていた。諸外国に比べて日本は検査が不十分ではないのか、早急にもっと増やすべきだ、という切迫した声が広がる。あるいは逆に、検査の拡大にはいろいろ問題がある、という専門家の反論もあった。しかも、専門家の中でも意見が分かれている。素人には何が何だかわからない。
PCR検査論争に首を突っ込んだ時の心境を、木村さんは以下のように記している。
「草むらに小さな穴を見つけて覗きこんでみると暗闇のなかに異様な世界が広がっていて、めまいがした。迷い込むと出口が見つからなくなる。法律家やら政治家やら科学者やらが一斉にしゃべっている。みな自分が正しいと吠えている。理解できない言葉が響き渡る。どこだ、一体ここは」
テレビでPCRに関する報道を何度か見た人なら同感だろう。木村さんは、そうした視聴者と同じ目線から改めて議論を整理し、分析していく。一種の「ファクトチェック」作業だ。門外漢ではあるが、一ジャーナリストとして。
木村さんは、論争の当事者を「検査拡大派」と、「検査拡大反対派」に大別する。「拡大派」はテレ朝の「モーニングショー」など民放のワイドショーや野党、ジャーナリスト、医師などの一部。それほど明確ではない。「反対派」は政府対策本部の専門家会議、厚労省のクラスター対策班、感染研、感染二学会(日本感染症学会と日本環境感染学会)、さらには医師の一部など。「コロナ専門家有志の会」も含まれる。政府の専門家会議やクラスター対策班の関係者などで組織されている。
「有志の会」は4月8日、「37.5度以上の熱が4日以上」「高齢者や妊婦は2日以上」などの目安を示し、それに該当しない人は「自宅回復」を呼び掛けていたグループだ。専門家会議の全12人を含む21人が参加していたというから「有志」とはいえ影響力が甚大だ。この「目安」が出ていたため、体調不良でコロナではないかと不安になっていても、PCR検査が受けられなかったという人は少なくない。
その「有志の会」は「新型コロナの陰性証明はできません!」というメッセージも発していた。そのあたりの事情を、木村さんは次のように見る。
「国としてはあくまでPCR検査を進めていると表明しているため、『検査を拡大せよ』という声に反論ができない。PCR検査体制はまだ十分ではない。そのため、専門家会議の、さらに下にある『有志の会』を使って『検査を拡大せよ』という声を抑えるために、ウエブサイトやSNSでメッセージを出し続けたのではないか・・・」
この問題がわかりにくいのは、「政府側がいわば抵抗勢力になっていたこと」だと木村さんは分析する。
「検査拡大に反対」する理由は、「PCR検査の精度の問題(偽陰性や偽陽性)」「膨大な費用」「検査技師が大変」「検査体制に限界がある」など。木村さんは、専門家や権威と言われる人物が、さまざまなメディアで「検査拡大に反対」の論を展開し、メディアがその後押しをしてきた姿を検証している。俎上に上がるのは、メディアで見慣れた名前が少なくないので、なるほど、あの人はそういう立場と役割だったのか、と大いに参考になる。
そういえば、その一人は最近も、感染者が急増しているというNHKニュースの中で専門家として登場し、「数字に一喜一憂すべきではない」という趣旨の発言をしていた。
評者は「原子力村」と同じように、「感染症村」もありそうだな、と感じた。そして、クルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス」に乗り込み、船内での検疫のずさんさや監視・隔離体制の不備を発信して、国際的に注目された岩田健太郎・神戸大学大学院医学研究科・微生物感染症学講座感染治療学分野教授が、4月に出版した『新型コロナウイルスの真実』 (ベスト新書)の記述を思い出した。岩田教授は動画公開後に「いろんなところから外されている」と書いていた。とある学会の感染対策のガイドラインでは、今までずっとメンバーに入っていたのが露骨に外されたというのだ。同書では「厚労省の後ろにいるお抱えの専門家」という表現もあったと記憶する。
本書の後段では、「検査拡大に反対する意見」を紹介するときの、メディアの報道の仕方についても検証している。たとえば「『PCR検査せよ』と叫ぶ人に知って欲しい問題」という5月12日の東洋経済の記事。この見出しからは「検査拡大」を主張している人が「感情的に叫んでいる」という印象が形成されると指摘する。
あるいは、毎日新聞の「『政府は患者数を少なく見せようとして、ウイルス検査を増やさないのではないか』。インターネット上では『陰謀論』が渦巻いている」(4月15日)という記事。この表現だと、受け手は、その「陰謀論」とは逆の話に賛同的になる。つまり、「政府に対する陰謀論」という印象を植えつければ、政府に賛同することに受け手を誘導できる、と見る。
特に木村さんが問題視しているのは、「本当のことを知ってください!」というセンセーショナルなタイトルを付けたNHK「おはよう日本」(4月28日)だ。これは神奈川県医師会の発信する「かながわコロナ通信」を取り上げたニュース。「専門家でもないコメンテーターが、まるでエンターテインメントのように同じような主張を繰り返しているテレビ報道があります」「出演している医療関係者も長時間メディアに出てくる時間があれば、出来るだけ早く第一線の医療現場に戻ってきて、今現場で戦っている医療従事者と一緒に奮闘すべきだろうと思います」というのが同医師会の主張だ。
こうした報道の仕方では、神奈川県医師会の言うことが本当ということになり、フェアな報道とは言えないと木村さんは見る。PCR検査については「『今すぐにPCR検査を増やせ』の風潮に疑問」と一方的に抑制する側の主張を伝えている。「神奈川県医師会の口を借りた民放攻撃であり、政府政策を検証しようとする側への言論封殺と言われても仕方がないだろう」と手厳しい。
もし「医療関係者をテレビに出すな」ということになれば、番組は素人のコメンテーターのみになる、と医師会の主張の論理矛盾も指摘している。
本書によれば、中国の武漢では2020年5月14日から6月1日までのわずか2週間で、約1100万人の住民のうち980万人にPCR検査を実施したそうだ。陽性反応は約300人で、いずれも無症状。武漢は安全な都市になったと、記者会見したという。
一方、安倍首相は5月25日に記者会見。「わずか1か月半で今回の流行をほぼ収束させることができた。日本モデルは世界の模範だ」と胸を張り、「新しい日常」で「経済活動」を取り戻そうとアピールした。しかしながら、日本では大規模なPCR検査は行われず、コロナが再び爆発している。
BOOKウォッチで紹介した『コロナ後の世界は中国一強か』(花伝社)では、中国のコロナ封じ込めの徹底ぶりと、日本との落差が指摘されていた。特に驚いたのは、日本のPCR検査の立ち遅れ。同書では、下野新聞に掲載された筑波大の本田克也教授(法医学)の話が紹介されていた。それによると、「日本は古い技術のままで、手作業の多い方法で行っている」のだという。検査を増やすには自動化された機器の導入が必要。海外の多くの国はスイス・ロシュ社の機器を使っている。一台1000万円近くする。
同書の著者で、中国問題研究家の矢吹晋・横浜市立大学名誉教授は、「これこそが検査能力が諸外国に比べて圧倒的に劣る理由であった。ちなみに有名なアベノマスク予算は、466億円らしいので、4660台買える計算だ。これだけあれば、全国の主要大学病院、主要公立病院に配置できるだろう」と皮肉っていた。
本書では巻末に各種要望書のたぐいも参考資料として掲載されている。自民党の三原じゅん子氏の発言を評価するくだりもあり、著者に政治的・思想的な背景はなさそうだ。
報道機関が犯す典型的な過ちとして「偽りのバランス」も特記されている。対立する見解を、それぞれの見解を裏付ける証拠に大きな違いがあるにもかかわらず、同等に扱おうとするときに起きる現象だという。今回のPCR報道はどうだったのか。医療関係者だけでなく、取材するマスコミ関係者も大いに参考にすべき一冊と言える。
BOOKウォッチでは関連で、『医学部』(文春新書)、『わかる公衆衛生学・たのしい公衆衛生学』(弘文堂)、『流行性感冒――「スペイン風邪」大流行の記録 』(東洋文庫)、『病魔という悪の物語――チフスのメアリー』(ちくまプリマー新書)、『新型コロナはいつ終わるのか?』(宝島社)、『病が語る日本史』 (講談社学術文庫)、『復活の日』(角川文庫)、『観光ビジネス大崩壊 インバウンド神話の終わり』(宝島社)など多数紹介している。
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