戦後生まれが読むと、仰天するような話が満載だ。『「駅の子」の闘い――戦争孤児たちの埋もれてきた戦後史』 (幻冬舎新書)は、「駅の子」になることを強いられた子どもたちの物語だ。「駅の子」とは戦後間もないころ、大きな駅を住居やねぐらに生活していた子どもたちのこと。「戦争孤児」の中でも、もっとも虐げられ、世間から見捨てられてきた子どもたちだ。
本書は、京都の立命館宇治中学・高校で「現代社会」を教えている本庄豊先生の話から始まる。授業で「戦争孤児」のことを取り上げたら、生徒たちが熱心に聞くようになった。今の子どもたちは戦争のことを全く知らないが、自分たちと同じ年ごろの子どもたちの話に引き寄せると、興味を持つ、というわけだ。
国内はもちろん、世界各国からの観光客でにぎわう京都駅。70年余り前、そこは戦争で親を失い、親戚からも見放された寄る辺のない子どもたち、いわゆる戦争孤児、戦災孤児のたまり場だった。
本書に、当時をしのばせる一枚の写真が添えられている。本庄先生が新たに発掘したものだ。京都駅前で、破れた帽子をかぶり、たばこの空き箱を手にもって、少しはにかんだような表情を見せている少年。頬は薄汚れている。明らかに「戦争孤児」「浮浪児」だ。
本書の著者、中村光博さんは1984年生まれ。東京大学公共政策大学院修了後、NHKに入局。大阪放送局で報道番組のディレクターをしていた2015年、現代史についての勉強会で本庄先生の話を聞いた。この写真を見せられて、「70年前の子どもたち」の取材を始めることになる。
一体どれくらいの戦争孤児がいたのか。1948(昭和23)年2月に国が沖縄県を除く全国で行った調査によると、12万3511人。終戦から2年半もたってからの調査なので、終戦直後の実数はもっと多かったといわれている。東京、兵庫、広島などは5000人台、京都でも4000人台。東京や神戸の空襲、広島原爆が影響している。京都は空襲を受けなかったので、暮らしやすいのではないかということで近隣から流入した。
中村さんは苦労して、駅をねぐらにしていた当時の子どもたちを探し出す。「駅の子」だ。15年以降、NHKのニュースやNHKスペシャル「"駅の子"の闘い――語り始めた戦争孤児」(2018年度ギャラクシー賞・選奨受賞)などで報じてきた。取材はかなり難しかったという。
神戸市の内藤博一さん(85歳)は三宮駅を根城に、待合室で半年暮らした。「戦災孤児であったということを世間一般に知られたくないんです・・・ほとんどの人は隠して生きているから」。
「駅の子」が多かったので有名なのは上野駅だ。地下道は大人も含めて寝泊りする人であふれていた。当時15歳だった金子トミさんは、思い出す。
「夜になると人で埋め尽くされて、ほとんど空いているところはありませんでした。壁に寄りかかって、妹と弟と3人で固まって寝ていました。ああ、お母さんとお父さんがいればなあと思わない日はなかったです」
中村さんの執念の取材で、本書では多数の「戦争孤児」「駅の子」たちが登場する。その中でも数奇なのは伊藤幸男さんだろう。1935(昭和10)年生まれ。父は戦死、母も過労で亡くなり、故郷を飛び出す。終戦の一年後、東京にたどり着いて「駅の子」に。銀座で進駐軍の兵士相手の靴磨きをする様子は当時の新聞に写真付きで紹介されている。
やがて路上生活をする子どもらを摘発する「狩り込み」で捕まり、鉄格子のある収容施設に閉じ込められた。その後、群馬県の「鐘が鳴る丘 少年の家」に移り、この施設で暮らしながら、中学を出て高校に進む。そして大学に通いつつ、米軍関係者が多く出入りするバーでアルバイトをして英語力を磨いた。22歳の時、アメリカ大使館での面接を突破し、知人に紹介してもらったアメリカ軍将校に保証人になってもらって、米国ウィスコンシン州にあるローレンス大学への留学を果たす。
実際にアメリカに行ってみると、伊藤さんの英語力では米国人学生に太刀打ちできない。そこで伊藤さんは、新たにスペイン語を学ぶことにする。これならアメリカ人の学生とスタートが同じだからだ。卒業後は、日本に戻って就職することも考えたが、両親がいないという大きなハンディがある。そこで、そのまま米国にとどまり、高校のスペイン語教師になり、国籍もアメリカに改めた。ずっとアメリカ在住。退職後は地元の高校に招かれ、「戦災孤児」の体験談を話すこともある。日本に戻ってきたときの一番の楽しみは、コンビニの「おにぎり」だという。
「おにぎり」は戦災孤児たち、「駅の子」にとっては、とてつもなく貴重なものだった。上野駅で暮らした金子さんは語っている。「何人見たか分かりませんよ、子どもの死体を」。飢えて衰弱した子どもを誰も助けることができない。政府は「おにぎり一つ」さえも配ることがなかったと憤る。
毎日何人もが死んでいく。本書は昭和20年末から翌年末にかけての大阪駅での行路死亡者(行き倒れ)数のグラフが掲載されている。毎月100~200人が死んでいる。
孤児の保護施設だった東京都養育院(板橋区)における19歳以下の土葬者数のグラフもある。毎月30人前後が土葬されている。
取材班はこの養育院の土葬者名簿も入手した。大人も含めて2700人。年齢別では9歳以下の子どもが342人。10代が86人。
数年前に別の報道機関が終戦前後の同院の惨状について調べようとしたことがあった。そのとき東京都の担当部局の責任者は、過去にこの養育院の業務を担当したOBに対し、マスコミ取材に一切応じないように箝口令を指示したという。退職後でも公務員の守秘義務違反になる、違反があった場合は退職後の年金を減らすことも検討すると伝えたそうだ。問い合わせが増えることや、養育院で多くの人が亡くなったということが都の政策の失敗といわれることを懸念したのだろう。本書は「リスクを冒して取材に協力してくれた人に感謝したい」と記している。
今や80歳を過ぎた「戦災孤児」たち。類書もあるが、本書では登場人物が実名で写真付き。長時間のインタビューで、それぞれの波乱の人生と人物像を明瞭に浮かび上がらせている。文章は平易で、構成も巧みだ。
「身に染みたよね、人の冷たさっていうのかね。本当にやさしかったら、あの孤児たちが、浮浪児がいたら、そこで何か周りでね、温かい手を出しているはずなんだよね、だから日本人というか、人間は、案外そういう冷たさを持っているんじゃないかと思うけどね」
「(上野の地下通路では)だいじょうぶかとか、そんなことを言うひとは周りに一切いなかったです。そんな優しい人は一人もいませんでした」
「食べ物には飢えていた。着るものもなくて毎日寒かった。だけど本当にほしかったのはぬくもりなんですよ」
「ほとんどの孤児たちが、怒りをどこにぶつけていいか分からないでいるのだと思う...親を取られて、それから親戚にも裏切られて・・・なんであんな戦争をしたんだって、それを訴えることのできない悲しさ・・・こじきをして物乞いをするって・・・それしかもう方法がないんですよ。僕たちに何の責任があるんですかね」
「孤児が路上にたくさんいた、そういう時代があったということは、やっぱりこれから日本人として育っていく人たちの脳裏にとどめておいてもらいたい」
「戦争で親を失った子どもの苦しみが今後あっては困るし、今の子どもたちにはね、そういうことは絶対に味わわせたくないと思いますよ」
登場した孤児たちの声である。二度と戦争を起こさないという、そういう思いを持って、高齢にもかかわらず、講演などをしている人もいる。90歳に近いにもかかわらず、細々と掃除のアルバイトなどをしながら、東京大空襲の被害者に対し、国が補償することを求めて活動している団体に寄付を続ける金子トミさんを番組で紹介したときは大きな反響があったという。中には「集団的自衛権」をきっかけに、過去の孤児体験を話すようになったという人もいた。
BOOKウォッチでは関連で、『もしも魔法が使えたら――戦争孤児11人の記憶』(講談社)も紹介している。類書には、石井光太さんの『浮浪児1945-戦争が生んだ子供たち』(2014年、新潮社)があり、石井さんの『漂流児童』(潮出版社)、『本当の貧困の話をしよう』(文藝春秋)、『育てられない母親たち』(祥伝社新書)も紹介済みだ。
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