「前立腺」と「歌日記」。まったく異質なこの二つが結びつき、本書『前立腺歌日記』(講談社)のタイトルを構成している。いったいこれはなんぞや?
ドイツ在住の日本人の詩人が「前立腺がん」と診断されてから綴った闘病私(詩)小説ということだが、表紙からして飄逸な感じがする。ぱらぱらめくると、挿入されているのは自作の歌や詩だけではない。万葉集、芭蕉から中原中也、現代詩まで、さまざまな短詩型が引用されていて面白そうだ。さらに読み進み、にやにやする。この著者、ただものではないと思った。
著者の四元康祐さんは1959年大阪府生まれ。82年上智大学文学部英文学科卒。86年アメリカに移住。90年ペンシルバニア大学経営学修士号取得。91年第一詩集『笑うバグ』を刊行。94年ドイツに移住。その後、萩原朔太郎賞、鮎川信夫賞などを受賞するなど、現代詩壇で注目されている人のようだ。どうやら本業はビジネスマンらしい。
「第1章 奥の細道・前立腺」の書き出しが熊野詣から始まる。スペイン人夫婦らと総勢7人で歩いたのだ。もとより膝に痛みを抱えていたが、一行に後れを取るほどの痛みを感じたので、ドイツに帰国後、血液検査を受けた。12年前にもこんな詩を書いていた。
背後にはパソコンの画面が輝いていて 私の前立腺の断層像が複雑な地形のように浮かんでいる 「肥大はしていない。腫瘍かどうかは 確認できない。遠すぎてね。指が届かないんだ」 そう言いながらイジコフスキー先生はもう一度試そうとするので 私はまた、ああっ、虚ろになってしまう(「寂しき高み」から抜粋)
前立腺がんの腫瘍マーカーであるPSA値が少し高めだったので、3か月後に再検査をすることになった矢先、「ひとりの女が私の前に現れた」。「道を歩いていて女のほうから話しかけられたのは、生まれて初めてだった」。
このあたりから検査や診断、処置は厳しくなる一方なのに、恋心は熱くなる。
To do or not to do とふたりの私が押し問答する中、「私の前立腺が調停した」。生体検査の結果を待とうというのだ。
初期のがんが認められた。前立腺がんの多い家系。手術の後遺症を尋ねると、尿漏れと性的不能だという。そこで作った歌。
漏れと萎えマフラーのごとく靡かせて三つ子の魂冥途の飛脚
そして、手術を決断し、入院する。評者の身内や友人でも前立腺がんの手術を受けた人は少なくないが、術後に大きな変化があることを知らなかった。いや、だれも教えてくれなかった。著者も「えっ」と声を上げて驚いた。射精という現象がなくなるというのだ。それでも絶頂の感覚は残るという。
空砲一発、全滅した兵士らの亡骸に降り注ぐ
手術後、著者は「尿道カテーテルをつけたまま詩がかけるか?」と自問し、実際、後から後から詩が生まれるのである。
放射線治療を受け、性機能改善薬の服用を始めた著者は、日本製のDVDを見て、反応を確かめる。生真面目そうな記述に笑わずにはいられない。本の帯にも「がんの話がこんなに面白くてよいのだろうか...」とあるが、これが胃がんや肺がんだったら、どうなのか? と考えてしまった。前立腺がんだから、こんな本も書けるのか。
最近、週刊誌がムダな治療法をしばしば特集している。前立腺がんはいつも槍玉に挙げられる。手術するのか経過観察するのか、微妙な感じがする。
男性としてはどうなのだろう? 射精という現象がなくなるというのは。著者は地の文で、こう表現している。
「恐竜は茫然と立ち尽くしたまま口を開き、天を仰ぐ。だがその喉からは何も出てこない。火炎も放射されなければ、雄たけびも放たれない。僕は思わず眼を凝らす。穴の淵から、せめてかすかな煙くらいは立ち昇らないものかと」
本書のネット上の書評に、女性読者から「不倫」のような記述があり、女性として嫌悪感を覚えた、とあった。本書は「私小説」とうたっているが、私小説が真実を書いているとは限らない。恋の対象の「M**」なる女性もおそらく虚構的存在だろう。ミュンヘンにいる日本人の美術修復専門の女性なんて、大きな名札を首からぶら下げて往来を歩いているようなものだから。
男性的機能をうんぬんする話の筋ゆえ、女性の登場は必須だったと思われる。それなら、妻でいいじゃないか、という向きとは、小説の話はしたくないものだ。
著者には『偽詩人の世にも奇妙な栄光』という小説作品があるが、詩に劣らず、小説も巧者と言わざるをえない。詩人というのは存外、おしゃべりだなという印象を持ちながら、楽しく読んだ。
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