一昨年(2017年)、『ゲームの王国』(早川書房)で、日本SF大賞と山本周五郎賞を受賞した小川哲さんの新作『嘘と正典』が出た。前作はカンボジアを舞台にした壮大な長篇SFだったが、本書は奇想小説、歴史小説、SF小説など6篇からなる短篇集だ。「歴史」と「時間」をかけあわせたみごとな着想に魅了された。
表題作の短篇「嘘と正典」は読み応えがある。冒頭の場面は、19世紀半ばの英国の裁判所。『資本論』を書いたマルクスの協力者だったエンゲルスの刑事裁判から始まる。ストークスという電信技士が証人として出廷する。いきなり、「正典の守護者」とか「アンカー」「中継者」「歴史戦争」ということばが説明なしに出てきて戸惑う。なんのことやら分からないまま、話は冷戦期のモスクワへ飛ぶ。
CIAモスクワ支局は活動停止が決まった。ウォーターゲート事件とベトナム戦争で政府はCIAの活動規模を縮小しようとした矢先、モスクワのアメリカ大使館で火災が起きた。ソ連のKGBがマイクロ波による遠隔操作で火災を起こしたという噂に動揺した上層部が、活動停止を決めたのだ。
強固な反共主義者である工作担当員のホワイトは、あるエージェント志願の男と連絡を取る。KGBの罠かもしれず、連絡を見送っていたが、男が電子電波研究所の研究員であると身元を明かし、軍事機密の一部を提供したため、本物と判断、本部からもコンタクトが許可されたのだ。
研究員のペトロフは所長の不正や非合理な研究所の運営に不満を持ち降格されたのが、CIAと接触した動機だった。反重力場の生成という日々の実験は不毛と思われたが、ある日、過去の任意の地点にメッセージを送ることが可能であることが判明する。
ペトロフはホワイトに、この時空間通信技術の存在を伝える。ペトロフにKGBの追手が迫っていることを知ったホワイトは、あるメッセージの送信をペトロフに依頼する。
その歴史上最大のミッションとは、共産主義の誕生を防ぐため、エンゲルスを有罪にし、オーストラリアに島流しにすることだった。そうすれば、エンゲルスから生活の援助を受けていたマルクスは破綻し、『資本論』も出版されず、共産主義は生まれないはずだった。
ペトロフはそのメッセージを1844年の英国・マンチェスターのストークスという電信技士に送信するが......。
そして近未来。時空間通信技術が確立されると、「歴史戦争」という諜報戦争が始まった。技術を手にした国々は自分たちに有利になるよう好き勝手に歴史の改変を始めた。こうしてオリジナルの歴史は「正典」と呼ばれ、「正典の守護者」とか「アンカー」「中継者」が生まれた。「正典の守護者」は「善意の科学者と歴史学者が共同で発足したグループが母体になっている」ということだが、改竄された歴史と「正典」が混在する世界とは、どんなものだろうと想像がふくらんだ。それは案外、現代のことかもしれないと。
この表題作のほかに、もう一つ「魔術師」というタイムマシンものがある。零落したマジジャンがタイムトラベルに挑む。ほかの4篇もSFとエンタメが融合した名掌篇だ。
著者の小川哲さんは、1986年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程退学。コンピューターの父とされる英国の科学者・哲学者アラン・チューリングを研究したという。そうした知力が思弁的なSF的要素を支えている。
前作は上下巻の大作長篇だったが、今回は切れ味鋭い短篇集。著者の幅広い力量を見せつけられた思いがする。なお、早川書房は短篇「魔術師」を電子書籍で無料配信している。
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