香港の人気リゾート地、スタンレー(赤柱)に監獄があることを知っている日本人観光客はいるだろうか。しかも、戦後まもない頃、そこで死刑が執行された日本人BC級戦犯がいたことを。
本書『真実の航跡』(集英社)は、日本海軍最大の汚点とまで言われる「ビハール号」事件をモデルとした歴史小説である。
昭和19年(1944)3月、スマトラ島沖を航海中の日本帝国海軍の重巡洋艦「久慈」艦長の乾孝則は、五十嵐第十六戦隊司令官からの「船舶の拿捕および情報を得るために必要最低数の捕虜を除く、すべての捕虜を処分すること」という命令にどう対処すべきか悩んでいた。
これには前段があった。五十嵐は南西方面艦隊司令長官と同艦隊司令部参謀長から敵の交通線を破壊すると同時に、敵商船を拿捕するよう命じられていた。「状況ヤムヲ得ザル場合之ヲ撃沈スベシ」という「作戦命令」をどう解釈したらいいのか。さらに「捕虜の処分」とは何を意味しているのか。二人の上官はことばを濁すばかりだった。
イギリス商船「ダートマス号」に遭遇した「久慈」は、乾艦長の判断でこれを撃沈してしまう。唖然とする五十嵐司令官。捕虜の処分の件も伝えるが、乾は忖度して行わないと思っていた。
クリスチャンの乾はもともと「処分」という残虐行為には反対だった。だが、拿捕するはずが、撃沈。救命ボートの敵乗組員を救助と、やることがちぐはぐだった。はたして「処分」はどうなったのか。
物語は戦後、戦犯弁護人として香港にやってきた若い弁護士の鮫島正二郎の視点で進んでゆく。
裁判では、「処分」ということばの議論はなかったという元参謀長。すべての責任を五十嵐に押しつけようという姿勢は明らかだった。
さらに裁判で69人を「処分」した模様が詳細に証言される。甲板上に作った木の処刑台で捕虜の首をはね、海に投げ入れる。胴体は傾けて内臓を海に捨てた後、放棄した。これを「ガス抜き」と称した。こうすれば遺骸は浮いてこない。
二人とも「処分」には反対だったが、すれ違いの積み重ねが悲惨な結果を招いた。「忖度」を期待しても通じない相手もいるのだ。
裁判の結論はここでは明かさない。命令すら明確ではなかった帝国海軍。海軍ばかりではないだろう。論理性のないことばに従って、戦争を完遂した日本。著者が「忖度」というキーワードで本作を構築した意図は明らかだろう。
著者の伊東潤さんは歴史小説家。『国を蹴った男』(講談社)で第34回吉川英治文学新人賞、『巨鯨の海』(光文社)で第4回山田風太郎賞を受賞している。本作は著者にしては異色の歴史小説となる。
モデルとなった事件について、青山淳平氏の『海は語らない ビハール号事件と戦犯裁判』(光人社)ほかの参考文献を挙げ、青山氏には多くの資料を提供してもらったことを明記している。
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