本書『神奈川の記憶』(有隣新書)は神奈川県の歴史について書いた本だ。いわゆる郷土史本だが、類書とは全く違う。石器時代から説き始めて、有名な事象を順に古代、中世、近代、現代へと進むスタイルを取っていない。郷土の歴史をランダムに、主に知られていない話を掘り起こしながら再構成している。いわばニュース性のある「郷土史再考」「異聞郷土史」だ。
筆者の渡辺延志さんは朝日新聞のベテラン記者。本書は2015年から同紙の神奈川版に長期連載されたシリーズから42話を選びだし、加筆するなどして単行本にしている。
たとえば現代編。エリザベス・サンダース・ホームの創始者、澤田美喜さんが登場する。戦後の混乱の中で、大量に生まれた混血児に手を差し伸べて施設を造り、学校も作った人として余りにも有名だ。普通なら、澤田さんのパーソナルヒストリーと、サンダースホームのことを復習しておしまいだろう。
しかしながら本書では澤田さんの意外な一面をあぶりだす。よく知られているように、澤田さんの社会福祉的な事業に対しては、称賛の声ばかりではなかった。多数の混血児をつくる側になった占領軍、なかんずく米国関係者は、埋もれている混血児の問題を白日にさらす活動に対して好感を持たなかった。日本人の一部も「恥」を表に出す人として、忌避した。つまり、献身的な活動に対しては風圧も強かった。
敬虔なクリスチャンだった澤田さんはじっと耐えた。その根っこには、こんなことがあったという意外な話を渡辺さんは書いている。
澤田さんは実は、隠れキリシタンの遺物コレクターだった。すでに戦前から収集を始めていた。踏絵やマリア像、小さな十字架が描かれた刀の鍔(つば)・・・弾圧の嵐に耐え、信仰を守ろうとした人々の残した品々を、ざっと1000点ほど持っていた。資産家だった澤田さんは、ホームの運営のために様々なものを売りに出したが、この遺物だけは手放さなかったという。
「失望と悲嘆と怒りの時、私に光と希望を与えてくれました」
隠れキリシタンのことを考えれば、まだまだ頑張れるということだろう。澤田さんがそんな思いを記していたということを、渡辺さんは紹介している。
本書ではこのほか、様々な秘話やエピソード、あるいは当たり前だと思っていたことの知らなかった側面などを伝える。
例えば「臨済宗と曹洞宗」。神奈川県にこの両派の大変由緒あるお寺があることは誰でも知っている。鎌倉の建長寺と、鶴見にある総持寺だ。建長寺は臨済宗の、総持寺は曹洞宗の大本山。ともに鎌倉時代に始まる禅の宗派だが、その作法が異なるというのだ。本書では座禅写真も掲載されている。「壁に向かって座る曹洞宗の作法」「人に向かって座る臨済宗の作法」というキャプションが付いている。両者が交流する珍しい機会をとらえて、さっそく記事にしている。
渡辺さんは1955年生まれ。朝日新聞本社の学芸部で長く考古学や歴史関係を担当し、2014年から横浜支局に移った。そんなこともあり、以前からの人脈が連載の中でも生きている。川崎で発掘された7世紀ごろの遺跡の話では早稲田大学の李成市教授や横浜市歴史博物館の鈴木靖民館長、時宗の総本山である川崎市の遊行寺の話では五味文彦東大名誉教授など、著名な学者が次々と出てくる。記者自身に歴史に関する知識があり、専門の研究者や学者も知っているのが強い。ネタ自体も、旧知の専門家から耳打ちされたものが少なくないようだ。それらを関係者に会い、現地を歩き、本や資料を探し、博物館をのぞいて肉付けしている。
大手新聞社では近年、「定年」後に改めて地方を拠点に働く記者が少なくないという。渡辺さんはこの連載のみならず、全く個人的な研究として『虚妄の三国同盟 - 発掘・日米開戦前夜外交秘史』(岩波書店、2013年)、『軍事機密費』(岩波書店、2018年)なども刊行している。いずれも大変な労作だ。地方支局で働く若い記者らにとってはもちろん、60歳を過ぎてからどうすごすか悩む多くのシニアにとっても刺激になるのではないか。
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