戦後間もない1947年(昭和22年)、NHKラジオで「鐘の鳴る丘」の放送が始まった。戦争から復員してきた青年が、戦災孤児たちのために奮闘する物語だ。
大ヒットしたこのドラマに触発される形で48年、群馬県では児童養護施設「鐘の鳴る丘」が作られた。同じ年に、神奈川県では大磯町に乳児院「エリザベス・サンダース・ホーム」が創立される。本書『「混血児」の戦後史』(青弓社)は後者に焦点を絞り、戦後社会と「混血児」についてまとめたものだ。
戦争は数多くの悲劇を生む。何の責任もないのに、もっとも過酷な人生を強いられたのが、親を失ったり、親から切り離されたりした子どもたちだ。戦災孤児はその代表格。中国残留孤児も記憶に新しい。「混血児」もまた新たなる差別や排除にさらされた。
戦後最初の混血児は、大陸からの引き揚げ過程で生まれた。満州や朝鮮半島でソ連兵士に強姦された女性たちが母親だ。引揚船の上陸港では、政府筋の要請で堕胎手術を受けた女性は数百人にのぼったという。ただ、こうした引き揚げによる混血児はそう多くはなかった。戦後、大きな社会問題になるのは、占領下に売春婦や現地妻(オンリー)になったり、強姦されたりした女性から生まれた子どもたちだ。
今ではすっかり忘れられているが、終戦から3日後の45年8月18日、警視庁は早くも、占領軍のために公設の慰安施設をつくる協議をしている。風紀維持のためだ。8月下旬には「特殊慰安施設協会」(RAA)が設立された。慰安部に所属した女性(娼妓、芸妓など)は5000人にのぼった。都内を中心に30余りの関連施設が用意されたが、アメリカ本国からの批判などで翌年閉鎖、そこで失職した女性が「街娼」=パンパンになった...。本書は以上のように当時の状況と、「混血児」の背景を振り返る。
エリザベス・サンダース・ホームが引き受けることになったのは、そうした母親たちから生まれた子どもたちだった。
創設者の沢田美喜さん(1901~80)は上流階級の出身だった。三菱財閥創始者岩崎弥太郎の長男・久弥の長女として東京に生まれる。外交官・澤田廉三と結婚後、長期間海外で生活する。イギリスでのボランティア体験からキリスト教社会福祉事業に関心を持ち、日本で同じようなことをしたいと思い、ホームを設立する。一種の「ノブレスオブリージュ」(身分の高い者はそれに応じて社会的責任と義務を果たすべきだという欧米の考え方)だ。
当初は幼子ばかりだったが、やがて学齢期を迎える。ホームで生活する子どもたちを、地元の学校で受け入れる態勢は整っていなかった。そこで、新たに聖ステパノ学園小学校や中学校も設立する。私財を投じた献身的な活動は各方面から高く評価され、昭和天皇・皇后も訪園した。62年にはブラジルのアマゾン川流域の開拓を始め、聖ステパノ農場を設立。かなりの数の卒園生が移住したという。
本書は、占領・復興期の混血児誕生、日本「独立」後の公立小学校の混血児教育、高度成長期の混血児教育など、時代を追いながら混血児を軸とした戦後教育史の大きな流れを振り返りつつ、沢田さんの活動と、聖ステパノ学園の歩みを改めてたどっている。
著者の上田誠二さんは1971年生まれ。現代史や教育史の研究者で、横浜国立大学などで非常勤講師を務める。大磯町の町史編さん事業を担当したことで、エリザベス・サンダース・ホームに関わってきた。
とかく「美談」「立派な福祉事業」として語られがちな学園だが、個々の在校生にはいろいろと複雑な思いがあったことなども記されている。ブラジル移住事業も短期間で終わった。
平成が終わろうとする昨今、「鐘の鳴る丘」や「エリザベス・サンダース・ホーム」、さらには沢田さんのことを知る日本人は次第に少なくなっている。著者の上田さんは「教育者・研究者の端くれとしての矜持を再確認するために本書を上梓した」と書いている。ようするに、「混血児」をのけ者にしようとしてきた戦後日本社会の身勝手と、「混血児」が強いられた困難から目をそらすことが出来なかったということだろう。そうした著者の意気込みが伝わる一冊といえる。
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