その昔、日本にも海賊がいたということはよく知られている。平安時代の藤原純友の乱の純友も、海賊だったようだし、13世紀ごろから東アジアを股にかけた「倭寇」などはその代表例だろう。「水軍」という別名もあって、瀬戸内海を根城に活躍した村上水軍などが有名だ。
本書『戦国江戸湾の海賊――北条水軍VS里見水軍』(戎光祥出版)の舞台は今の東京湾。こんなところに海賊がいたのかと、ちょっと意外性がある。著者の真鍋淳哉さんは青山学院大学非常勤講師。
「里見八犬伝」などで、かつて房総半島で里見氏が勢力を持っていたことはよく知られている。一方、今の東京湾をはさんで反対側の神奈川エリアは長く北条氏の支配地。東京湾の制海権をどちらが取るか。本書は戦国時代のその攻防を描いている。
結論から言えば、一進一退。片方が勢力を伸ばすと、他方が巻き返す。たとえば、北条氏が大きく里見氏を押し込むと、里見氏が上杉謙信に援軍を求めて盛り返す。房総を配下に収める里見氏にはもともと海とは密接なかかわりがあり、操船に長ける衆がいた。対する北条氏も三浦半島に「三浦衆」を抱えていたが、さらに紀伊半島から「海の傭兵」も招聘していた。
本書では「海賊衆」について、平時は漁業や運送業を生業としながら、戦時には領主らの勢力に属し、水軍として大名の統制の下に置かれていた存在と見ている。
三浦半島の浦賀から内房の先端までは10キロほど。まさに指呼の間だ。東京湾と外海を往来する船は必ずここを通過しなければならない。平時ならともかく、両氏の関係が険悪な戦時では相当の緊張を強いられたことが容易に想像できる。両氏の角逐は1577年の和睦まで続いたという。
本書でなるほど、と納得したのは「半手」という自己保身策だ。たとえば本牧郷(現在の横浜市中区本牧地区)の人々は、領主の北条氏だけでなく対岸の里見氏側にも年貢を差し出していた。そのことによって、本牧から対岸の木更津までの航行の安全を確保、村が襲撃されたりするリスクを回避していたという。逆に言えば、大名らの思惑とは別に、漁民や商人レベルでは対岸との交通や交易などが盛んだったことをうかがわせる。
豊臣秀吉は天正16(1588)年7月8日、いわゆる「刀狩令」を発布し、百姓などの武装解除を行った。同じ日にもう一つ「海賊停止令」も出している。「海上での海賊行為の禁止」「船頭や漁師を営む者は、海賊行為を行わない旨の誓紙を出し、国主がそれを取り集める」「領主などの油断で、領内で海賊行為が発生した場合は、海賊は成敗し、領主らは知行の没収」と厳しい。
当時、瀬戸内海では村上水軍の力が強かった。その力をそぎ、瀬戸内海の海上輸送、物流を秀吉が握る狙いがあった。これにより日本国内での海賊衆のパワーは急速に弱まったといわれる。秀吉は「陸」と「海」の武装解除を同日断行したのだ。
本書は戎光祥出版の「シリーズ【実像に迫る】」の中の一冊。写真、図版、地図、系図なども豊富に挿入され、わかりやすい。
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