今年の夏の甲子園は100回目となる記念大会。決勝戦が行われる日まで連日、伝説の球児たちがマウンドに上がり「レジェンド始球式」が行われている。甲子園の申し子とも呼ばれた清原和博さん(50)の名前はそのなかにはないが、開幕を前にして、甲子園での思い出も合わせてこれまでを振り返る半生記を刊行した。『清原和博 告白』(文藝春秋)。これまでの栄光と転落、そして自ら犯した罪を悔いながら、現在のうつ病や薬物依存とたたかう日々について赤裸々に語っている
2年前に覚醒剤取締法違反で逮捕され、裁判で懲役2年6月の判決を受け、4年間の執行猶予が付けられた。それ以来、薬物依存からの脱却を目指している清原さんだが「相変わらず薬物の欲求っていうのは、突然、襲ってきます」と告白。「そういうのにも勝たないといけない」と苦しみが続いていることを明かしている。
本書は、記者が清原さんにインタビューし、それが独白として綴られたもの。雑誌に連載され単行本化された。
清原さんの野球人生には、陰に陽に、ジャイアンツが横たわっていた。自身では、その野球人生の浮き沈みや、加速度的に下降線をたどったことについて、因果関係を断言はしないが「自分は巨人に行ったから、その後の人生を苦しんだかもしれない」という旨の発言を繰り返す。
幼いころよく一緒に過ごしていたという祖父は、酒を飲みながらテレビの巨人戦中継を見るのが楽しみだった。「おじいちゃんの膝の上で僕もそれを見ていた」という清原さんに祖父は「和博、日本一の男になるんやぞ」と語りかけていた。この経験がのちに、自分でも知らないうちにジャイアンツにあこがれ、野球に興味を持つきっかけになった可能性があるという。
その後、小学校3年生の時にリトルチーム入りし、PL学園で野球生活を続けながら巨人への思いを募らせる清原さん。高校3年生の夏、PL学園は甲子園で優勝を果たしたが、清原さんは球場の土を持ち帰らなかった。それは、卒業後にプロ入りするつもりであり、ドラフト会議で「ジャイアンツが絶対に指名してくれる」と信じ込み、そうなれば阪神戦で甲子園に戻って来られると思ったからという。
だが巨人は「1位指名」を約束しておらず、確たる根拠もなく、単なる思い込みだった。実際には、清原さんとKKコンビと称されたチームメートの桑田真澄投手を1位指名。桑田さんは清原さんにはドラフト前に早稲田大学進学を明言していたというから、複雑な思いに悩まされた。
西武に入団した清原さんは1年目から活躍。西武での11年間に8回優勝を遂げ、そううち6回日本一という栄冠を手にしたにもかかわらず、巨人への思いを断ち切れずフリーエージェントとして移籍する。清原さんは巨人との交渉の席で「ドラフトの事を謝ってほしい」と求めたが一蹴されたと告白。条件にも歓迎の意はなく、来たければ来てもいいよという態度を示された。そのため、三顧の礼を尽くすように入団を要請してきた阪神に「90%」決めていたのだが、母親の「初心を貫け」という忠告で結局、巨人にした。
そんな経緯を振り返り「あの時、ジャイアンツに行かなければ...」という思いがまた頭をもたげる。
巨人入団に、ファンの期待は大きかった。だが、チャンスに思ったように打てず西武時代の勝負強さを発揮できない。得点機に相手チームは、前の3番を打つ松井秀喜選手を敬遠し、4番の自分に勝負を挑む場面が増える。プライドを傷つけられ冷静に打撃ができなくなり凡退を繰り返す。ファンが清原さんへの応援をやめる事態にもなり、精神的にさらに追い込まれるようになった。
チャンスに強く、めきめき力を発揮し始めていた松井選手と自らを比べ「一番の違いはメンタルの強さ」と振り返る。運命のドラフトでは、巨人から指名されずテレビカメラの前で涙を流した。西武2年目に臨んだ巨人との日本シリーズの第6戦では、日本一となる勝利目前、一塁守備位置で号泣したこともあった。
巨人移籍1年目、ついに恋い焦がれたジャイアンツの一員になれたというのに、それまで自分を支えてきたものが崩れ去った。弱いメンタルをカバーし、打球の飛距離を伸ばそうと肉体改造への取り組みを始める。このマッチョ化についてとりあえずの成果があったこともあり自身では後悔はないというが、下半身をおろそかにしたことでヒザに悪影響が出て、のちの下降への道につながった。
不幸なめぐり合わせについて「あのとき、...たら」「もし、...れば」と、仮定で振り返るのは、あまり意味のないことかもしれないが、清原さんの半生についての語りを読むと、本人でなくても「あの時、ジャイアンツに行かなければ...」と考えさせられる。まして、この夏は。ジャイアンツに行かなければ、甲子園で...。
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