特攻隊というと、いわゆる「神風特攻隊」が有名だ。航空機で敵の戦艦に体当たりする。「人間魚雷・回天」を思い浮かべる人もいるかもしれない。しかし、ベニヤの小舟に爆弾を積んで突入する「水上特攻艇」について知っている人は少ないのではないか。
本書『ベニヤ舟の特攻兵――8・6広島、陸軍秘密部隊レの救援作戦 』(角川新書)は、そのあまり知られていない海の特攻についてのノンフィクションだ。
なぜ知られていないのか。どうして「秘密部隊」として隠し続けられたのか。著者のノンフィクション作家、豊田正義さんは、「余りにも粗末な乗り物での特攻だけに、さすがに当時の軍幹部の感覚としても、ベニヤ舟の特攻兵を表に出すことは憚られたのではないか」と推測する。
航空機の特攻は戦時中から知られていた。彼らの「戦果」は大本営発表で公表され、兵士は「軍神」となり、戦意高揚に利用された。それに比べると、多数の犠牲者を出した「ベニヤ部隊」は戦時中から秘密にされ、戦後も日陰のまま。防衛庁の戦史叢書第八十一巻に少しだけ顔を出すが、一冊600ページほどの同書の中でわずか1ページ半に過ぎない。確かにその扱いには雲泥の差がある。
本書が詳述する「ベニヤ特攻兵」とは、正式には陸軍の水上特攻の専門部隊「陸軍海上挺進戦隊」のことだ。1944(昭和19)年8月9日付けで最初の編成がおこなわれ、終戦まで約1年間存続した。広島・江田島にある「海上挺進戦隊慰霊碑」によれば、フィリピン、沖縄、台湾に派兵されたこの部隊の特攻兵の総数は2288名。その7割に当たる1636人が戦死した。ほぼ同時期に編成が始まった陸軍航空特攻隊の戦死者1417人より多い。
航空特攻隊は戦後も語り継がれ、映画やテレビなどでもおなじみだが、「ベニヤ特攻兵」は存在したことも、多数の犠牲者を出したことも大半の国民は知らない。あまりにも理不尽ではないかという思いが、著者を突き動かす。そしてかろうじて生き残り、まだ存命だった元の隊員20数人から回顧談を聞いてまとめたのが本書である。
海上挺進戦隊のために造られた「ベニヤ艇」は全長約6メートル、幅約2メートル、高さ約70センチ。平べったいV字型をしている。自動車のエンジンを使ったモーターボートだ。秘密なので連絡艇という名で呼ばれ、○の中にカタカナのレを入れた「マルレ艇」が通称。後部に約250キロの爆雷が装着されている。舟体の軽量化、建造が容易などの理由からベニヤ合板製となった。鋼材不足も影響していただろう。夜陰に紛れながら密かに敵艦船に近づき体当たり爆撃、というのが任務だ。隊員は戦地に行くだけで「5階級特進」という触れ込みだった。
技術陣は最初から「自殺兵器」をつくったわけではなかった。敵船に対して斜めから侵入し、舷側すれすれでタ-ン、爆雷を落として方向を変え、数十メートル走行したころに爆発、べニヤ艇は生還するという攻撃法を念頭に置いていた。ところが実際の戦術を検討するために集められた18人の将校たちは、「特攻隊なんだから、体当たりしかない」。隊員の生命よりも破壊力、確実な成功を重視したのだ。「一艇を以て一艦を屠る」。幸運にも生還した隊員は再度爆雷を搭載して出撃、ということも付け加えられた。
非情なる特攻戦術――本書はその首謀者を東條英機と認定している。43年の段階では、大本営は、下級将校から出始めた特攻作戦を却下していた。しかし44年に入り、戦況が悪化し、陸軍の司令塔、参謀本部の総長を兼務することになった東條が一気に特攻作戦に傾斜する。「敵の航母一艦に対しては我一機の体当たりでほふることが出来るのが日本の強みである」という総理大臣公邸での積極発言が残っている。
44年9月、「陸軍海上挺進戦隊」の第一陣が動き出す。30個の戦隊に3125人。全員に真新しい「ベニヤ艇」が与えられ、「天皇陛下のために死ぬことは、悠久の大義に生きることである」の訓示。フィリピン、沖縄に上陸するであろう米軍を水際の「特攻作戦」で食い止める責務を負うことになる。各戦隊の「ベニヤ艇」は輸送船のハッチに積み込まれ、隊員も一緒に次々と目的地に向かった。
ところが、である。彼我の戦力差は歴然としていた。本土から沖縄へ、さらにフィリピンへと向かう途中であっけなく米軍の餌食になる。米潜水艦による魚雷攻撃や米軍機の攻撃で多くの輸送船が沈没、ベニヤ艇も海に沈み、多数の隊員が戦う前に命を落とした。ごく一部がフィリピンなどにたどり着き、本来の特攻作戦を敢行したが、戦果はわずか。米側はすぐに、小舟による特攻作戦に気づいて、海岸の近くでは艦船が停泊しなくなる。運よく生き残った隊員はそのままフィリピンなどの地上戦に投入され、激闘で命を失ったり、捕虜になったり。
広島の江田島には、南方の目的地にたどり着けなかった隊員らが戻り、後続隊員の養成などに当たっていた。45年8月6日、広島に原爆投下。隊員たちは救援活動に駆けつける。そこでの目を覆うばかりの惨状と隊員たちの獅子奮迅の働きぶりは本書の圧巻だ。しかし戦後、体調が悪化した隊員が少なくなかった。原爆症だ。その後の国の無責任ぶりについても詳述されている。
本書で非常に興味深かったのは、学徒出陣を巡る話だ。1943(昭和18)年10月21日、明治神宮外苑競技場に約2万5千人の「学徒」が集められ行進する。そのとき明治大学生として参加した菅原寛さんは、著者のインタビューに「私はこれっぽっちも戦争に行きたくありませんでした」と語っている。もし徴兵逃れをしたら、両親が「非国民」と罵られる。出陣に応じるのは「家名」を守るため、と自分に言い聞かせていたという。だから出陣式で代表の東大生が「生等もとより生還を期せず」と答辞を読んだとき、怒りで煮えくりかえった。「あの答辞は君の本心なのか! それとも軍部の命令で言わされているのか」と問い詰めたい気持ちだったという。
美しく語られがちな学徒出陣式だが、学生の心境は複雑だったことがわかる。その菅原さんも、「陸軍海上挺進戦隊」の一員となり、南方に向かう。だが、米機の猛撃で輸送船が爆発、九死に一生を得て、広島に戻り、原爆被災者の救助作業に奔走する。まさにこの世の地獄。「この仇は必ず取ってやる!」と復讐戦を誓って戦い抜く決意に燃えたが・・・8月15日を迎える。
「水上特攻艇」は海軍にも似たような組織があり、NHKの番組になった。また、海軍・陸軍両方の「特攻艇」について書かれた軍事系出版社の本もある。ただし、「陸軍」に絞って調べ、多くの関係者の証言を集めて、原爆被害にまで踏み込んだ一般向けのノンフィクションという点では本書が際立つのではないか。
著者の豊田さんは1966年生まれ。新聞記者をしていたこともあり、文章は平易で、事実関係の確認にも気を配っている。『妻と飛んだ特攻兵 8・19 満州、最後の特攻』『ガマ 遺品たちが物語る沖縄戦』などの著書もある。本書は15年に刊行した『原爆と戦った特攻兵 8・6広島、陸軍秘密部隊(レ)の救援作戦』を改題のうえ加筆修正した新書だ。多くの証言による貴重な「オーラル・ヒストリー」として後世に伝えられるべき一冊といえるだろう。新書用の新たな「あとがき」で豊田さんは書いている。
「国民の『安全保障』にとって、最も脅威となるものは何か。敵国からの攻撃や侵略はもちろん脅威である。だが、戦争をテーマにノンフィクションを書いてきた私がつくづく思うのは、それ以上に国家権力の暴走と愚挙こそが脅威だということである。強大な国家権力は、その気になれば国民を洗脳し、いつのまにか、とんでもなく悲惨な任務を与える。そして、まるで虫けらのごとくその命を国家のために消耗させる」
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