このところ歴史本ブームである。経済書の分野でもその傾向がある。これは、現代が混迷の時代であることの裏返しではなかろうか。つまり、いま難しい問題がたくさん起きているが、みずからの経験からだけでは処方箋が見つからない。解決に導いてくれる人も見当たらない。ならばもっと長い時間軸で答えを探そう。歴史の教訓から探ろう...そんな発想を抱く人が増えているのではなかろうか。
本書『世界経済 大いなる収斂』(日本経済新聞出版社)はまさにそんなニーズにそって脚光を浴びている本だ。
リーマン・ショックのあった2008年以降、それ以前とは比べようがないほど先進国経済は低成長に陥った。なぜか。何が悪いのか。どうすれば以前のような高い成長を取り戻せるのか。世界中の経営者や当局者、市場関係者がそんな疑問を抱いているが、納得のいく答えはなかなか見いだせない。本書はそこに一つの答えを示す。
著者のリチャード・ボールドウィンは1991年からジュネーブ高等国際問題・開発研究所教授。2016年からは英経済政策研究センター(CEPR)所長も務める。オックスフォード大、マサチューセッツ工科大、コロンビア大などの有名大学で客員教授や准教授も務めてきた。著名な経済学者ポール・クルーグマンの弟子でもある。クルーグマン氏とは多くの共同論文も発表している。ノーベル経済学賞受賞者にして、米ニューヨーク・タイムズ紙の名物コラムニストでもある師の教えよろしく、当人も軽妙なストーリーテラーだ。
本書の大きなポイントは、人類史のなかでグローバル化がどのような系譜をたどってきたかという見立てだ。著者はグローバル化にはいくつかの段階があると言っている。
最初のグローバル化は、アフリカから発した人類が世界中に拡散していった大移動だ。これがとくに顕著になったのが約1万5000年前。
その後、気候温暖化が進み、約1万2000年前にそれが安定すると、多くの地域で農業が可能となる。恵まれた土地の人口密度は上昇。人が食料のあるところに移動するのでなく、食料生産が人のいるところに移動する「農業革命」が起きた。
この段階ではむしろ世界経済はグローバル化でなく、ローカル化したと言える。だが肥沃な地域には大きな文明が勃興し、やがて巨大文明どうしの貿易が始まる。たとえばシルクロード交易のようなものだ。それでもまだこの段階では輸送コストが著しく高く、貿易量は今から見ればきわめて少なかった。
次の節目は1820年ごろ。蒸気革命で蒸気動力を手に入れた人類は、大陸間の移動の困難を克服し、輸送コストを一気に安くした。遠く離れたところでつくられたモノを消費することが経済的に見合うようになった。これが歴史上まれに見る世界経済の富の逆転をもたらす。それまで文明の中核を成していたアジアが「周辺」となり、周辺だった北大西洋が「中核」となった。欧州や米国、日本は工業化で富を手にし、中国やインドは空洞化した。これが「大いなる分岐」と言われる現象だ。
その流れは最近まで続いた。産業はG7主要国に集中し、成長を加速するイノベーションもここで起こった。産業の発展が新興国、途上国になかなか広がらなかったのは、アイデアの移動コストがそれほど下がらなかったからだ。
本書の分析はそこからさらに核心に迫る。近年のICT(情報通信)革命によって国際アイデアを移動させるコストが激減すると、G7企業が北の知識を南に移し始めたというのだ。それによって成長の恩恵が全人類の5分の1の先進国から、新興国も含む全人類の半分にまで波及したのだという。
著者の例えを借りるなら、G7という強いサッカークラブチームのコーチが週末に弱い新興国チームを鍛えたようなものだという。コーチは自分のノウハウを二つのチームに売れるので見入りが増える。だが弱いチームが強くなるので、強いチームの競争力が落ちるというマイナス面もある。これが先進国経済の低成長や賃金上昇の停滞である。
いまは一握りの新興国にしか成長の恩恵が広がっていない。これはG7コーチが鍛えようと決めた弱いチームだけでしか競争力が高まらなかったからだ。その原因を著者は「ヒトの移動コスト」にある、という。コーチの数には限りがあり、週末には1人のコーチは1チームしか教えられなかった。
人類はモノとアイデアの移動コストを著しく下げた。だが、最後に残った高コストの対象はヒトだというのだ。ただこれにもいずれ変化があるだろう、と著者は見る。
いま私たちの目の前で起きている低インフレや賃上げの停滞、貿易戦争といった出来事が、本書によって瞬く間に歴史の必然、歴史の流れに乗ったヒトコマのように見えてくる。分厚く、タイトルもいかめしいが、文章も平易で、楽しみながら読める経済歴史書である。
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