東映の映画について、どんなイメージをお持ちだろう? 「仁義なき戦い」の実録ヤクザ路線、「鬼龍院花子の生涯」の女性文芸路線......。年代によってさまざまだろうが、なにか一筋縄ではいかない感じ、不良的感性があるのではないだろうか。
本書『あかんやつら』は、そうした東映映画がどうやって作られていったかを、本丸の京都撮影所の成り立ちにさかのぼって叙述したものである。著者の春日太一さんは日大大学院修士課程(芸術学)在籍中に時代劇の撮影現場の取材を始め、スタッフや俳優に数多くインタビューしてきた。その成果は『時代劇は死なず』(集英社新書)、『天才勝新太郎』(文春新書)などに結実し、現在は映画史・時代劇研究家として、松方弘樹ら俳優の訃報のたびにコメントを求められる貴重な証言者となっている。
戦前からの歴史を持つ東宝、日活、大映に比べ、東映は戦後生まれた新しい会社だ。東急電鉄の子会社の東横映画が映画製作を始めるにあたり頼ったのが、マキノ光雄監督らの満州人脈だった。甘粕正彦率いた満州映画協会(満映)には多くの日本人スタッフがいた。「大陸から引き揚げてくる映画人の救済」が東横映画の大方針となったという。
京都・太秦にある元新興キネマのスタジオだった大映第二撮影所を改造して1947年、東横映画撮影所がオープンした。映画を作っても作っても収入は乏しく、49年の暮れにはボーナスはおろか餅代も出せないという窮状。小道具のピストルは警察から本物のブローニングを借りたとか、町並みのセットに使う石畳は、廃線の線路から調達したというエピソードが泣かせる。連日の徹夜は当たり前だった。
51年、東急系列の東横映画、東映配、太泉スタジオの3社が合併し、東映となった。52年に日本が独立し、GHQ統治下で制限されていた時代劇が解禁され、片岡千恵蔵、市川右太衛門の二大スターを抱える東映は、息を吹き返す。
本書の半ばからは東映中興の祖とされる岡田茂の一代記の様相を呈する。それくらい岡田イズムは強烈だった。47年に東大経済学部を卒業して入社した岡田が配属されたのは製作部進行係。裏ルートでヤミ米を調達し、「岡田の差配する現場では白米にありつける」と現場の信頼を得た。ヤクザとのけんかも辞さず、鶴田浩二は東大出とは思わず、後年まで「あれは拓大柔道部のキャプテンだからな」と語ったという。こうして人は彼を「鬼の岡田」と呼んだ。
不遇の時代もあったが、64年京都撮影所の所長に復帰すると、企画の決定権を握る。企画を聞くと、岡田が題名を考え、それからすべてが始まったという。ジリ貧の時代劇に代わるものとして打ち出したのが「任侠映画」だった。一般人に閉ざされたヤクザの世界が大衆の好奇心をひくと考えたのだ。そして外部から起用したのがプロデューサーの俊藤浩滋だった。のちに藤純子の父として知られる俊藤は、その筋とも関係が深く、作品には「ホンモノ感」が漂った。俊藤は「こういうヤクザはおらんで」と脚本を突き返すこともあったという。鶴田浩二、高倉健、藤らの活躍もあり、東映は息を吹き返した。
この後、「仁義なき戦い」の実録路線など叙述は続くが、東映に限らず、映画産業そのものの衰退が撮影所にも影を落としてゆく。テレビ時代劇の受注、撮影所の一部を転用した娯楽施設「映画村」の拡充......。今も京都撮影所は現役だが、往時の輝きはない。時代劇研究家の著者は当時の関係者、スタッフ約50人に何度も足を運び、貴重な証言を引き出している。最盛期には製作進行を務め、一線を退いてからは駐車場の配車係として86歳の晩年近くまで撮影所に居続けた「小指のない門番」故・並河正夫氏を序章に置き、撮影所にかかわった、すべての人々への温かいまなざしが全編貫かれている。
時代劇のテレビのレギュラー枠はほとんどなくなったが、東映京都撮影所は今でも時代劇製作が出来る数少ない現場のDNAを残しており、単発の作品に今もその名前を刻んでいる。本書は2016年に文庫化され、映画に興味のある人にとって必読書というべき存在となっている。
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