城山三郎の『落日燃ゆ』を読むと、元首相・広田弘毅に同情心がわく。戦争拡大に消極的だったのに、東京裁判で文官として唯一死刑になったのは気の毒だったと。
ところが、その広田に深く失望し、厳しく批判していた部下がいたという。それが本書の著者、石射猪太郎(いしい・いたろう、1887~1954年)だ。
石射の名を聞いて、すぐにピンとくる人は少ないのではないか。戦前の外交官。戦争拡大に抗して、和平工作に尽力したが、成功しなかった。著書『外交官の一生』は戦後、彼が書き残した貴重な外交裏面史だ。本人の弁によれば「深刻な追憶」=悔恨の記録でもある。
本書は1950(昭和25)年に読売新聞社から出版された。その後、絶版。72年、評論家の橋川文三氏の解題付きで太洋出版社から再刊される。これも入手が難しくなり、86年、歴史学者の伊藤隆氏の解説付きで中公文庫に。さらに2007年、中央公論新社のBIBLIO20世紀文庫の一冊として改版されて収められた。
半世紀以上にわたって何度も、関係者の尽力で繰り返し出版されている。それだけ、内容に価値にあるとみる専門家が多いということだろう。
20世紀文庫版で解説しているのは、日本政治外交史が専門の戸部良一・防衛大学校教授(当時)。ロングセラー『失敗の本質 日本軍の組織論的研究』の共同執筆陣の1人だ。戸部氏はあとがきで、本書が何度も再刊された紀緯をたどりながら、こう語る。
「日本の外交官の回想録の中から最も面白いものを選べと言われたら、迷わず本書を挙げる」
「信念と勇気を持って、昭和初期の日本外交を正道に戻そうと戦った外交官の、第一級の回想録である」
石射は東亜同文書院出身。キャリア外交官だが、帝大出身ではなかった。英米の勤務経験もあるが、広東、天津、吉林、上海など中国大陸の勤務が長い。外務省東亜局長も務めた中国関係のスペシャリストだった。
立ち位置としては戦前の外務省外交の正統派。大正末期から4度外相を務めた幣原喜重郎(1872~1951年)が打ち立てた幣原外交――「国際協調主義」「平和主義」「対華善隣主義」の信奉者であり、継承者だった。
とりわけ昭和初期(1930年代)、中国戦線が拡大する中で、石射は信念にのっとった動きを見せる。吉林総領事時代の31年、満州事変の発端となる柳条湖事件がぼっ発。「また軍がやった」と直感し、石射は「軍に対するパッシヴ・レジスタンス」に徹する。
32年の満州国建国についてはこう記す。「数人の清朝の遺臣を除いて、東三省中国民衆の一人だって、独立を希望した者があっただろうか」。関東軍から外務省に「石射吉林総領事は軍と協力の意思なしと認む、至急召喚を要求す」と弾劾文が送られた。
その後、上海総領事などを経て東亜局長に。37年の盧溝橋事件では不拡大方針を強く主張し、停戦交渉への道を開こうとしたが失敗。38年、宇垣外相就任時には、長文の意見書で早期和平の実現を訴え、外相を補佐して再度和平に取り組むが、軍部の圧力で実を結ばず、外相と共に辞任する。その後はブラジルやビルマの大使を務め、戦後、公職追放。幣原平和財団の理事になり、幣原喜重郎の伝記編纂にあたった。
本書では38年の、「南京入城後の日本軍の暴虐ぶり」についても具体的に記されている。掠奪、強姦、放火、虐殺。「これが聖戦と呼ばれ、皇軍と呼ばれるものの姿であった」と慨嘆している。
本書の魅力は、「出会った事件や人物についての評価の歯切れの良さ、明快さ」(戸部氏)にある。
広田弘毅については「軍部と右翼に抵抗力の弱い人」「これ程御都合主義な、無定見な人物であるとは思はなかった」「弱体ぶりに幻滅」と容赦ない。「心からの平和主義者であり、国際協調主義者」ということに疑いは持たなかったものの、ワシントン在勤時代は崇拝し、期待感を持っていただけに、日中関係が緊迫する中で外相になった広田に仕えたときの物足りなさ、落胆も大きかったようだ。一度は辞表を出したが、受理されなかった。
陸軍に同調した「外務省革新派」と呼ばれたグループへの批判も手厳しい。「アングロサクソンと東亜において、中途半端なる妥協をなす要を認めず」と宇垣外相に詰め寄った面々だ。いわば、外務省の青年将校たち。戦後、外務官僚として出世した人物の名前もあるから驚く。
最後の任地、ビルマから帰国できたのは46年7月。すぐに外務省に出頭して辞表を提出した。
「外交官として・・・与えられた職場において日本と国民のため、正しいと信ずるところに己を空うして働いてきたつもりだ。が、微力にしてみすみす国家の滅亡を食い止め得なかった。自分独りの力で、どうにもなるものではなかったが・・・」
正直なつぶやきが共感を誘う。安倍政権のもとで、立場が微妙な霞が関官僚にとっても、時流に抵抗し、翻弄された大先輩の姿は教訓になりそうだ。
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