本書『武術の身体論』(青弓社)は、見た目どおり単なる武術上達の解説本だとすれば、読者層は限られたものになる。武道の競技人口は2%強(日本武道協議会、2014年)。スポーツ一般が国民の約60%(国調べ、2011年)に上るのに比べると極めて少ないからだ。しかし、本書には別の読み方がある。メルロ=ポンティ哲学の再入門という視点だ。
著者の西村秀樹さんは、広島大、筑波大で教育学を学んだスポーツ社会学、スポーツ文化学の研究者(九州大大学院教授)だ。従軍慰安婦など人権問題が専門の元ジャーナリスト(現・近畿大教授)は同姓同名の別人だ。
半世紀前、1960-70年代はマルキシズムと実存主義が時代を覆った。当時若者だった団塊世代とそれに続く世代は、マルキシズムに窮屈さを感じながら実存主義で律し、社会運動に参加した。著者も1954年生まれ、団塊に続く世代だ。
実存主義のベースは現象学。主観性(個人)と普遍性(社会)をつなぐ思想が、実存主義・現象学だった。メルロ=ポンティは知覚の間主観性という働きに着目、主観と普遍との媒介役に仕立てた。
なぜ、武術がメルロ=ポンティの哲学につながるのか。
生死をかけた戦いで勝つ可能性を最大限にまで高めるためには、心身の作用を全て活用する必要があったからだ。修行しなければならないのは無論だが、対決の場では相手の意図も知らなければならない。
西村さんは、武術を「同調」と「競争」の2つの観点から分析したとき、心の部分では、相手に深く同調することが欠かせない、と言う。そうした状況では、他者に対する単なる想像を超えた交流が生まれる。その点がメルロ=ポンティの哲学に一致する。
メルロ=ポンティの思想は、比較的分かりやすいとされた。それでも、ところどころに不可解な表現があった。
例えば、主著『知覚の現象学』(みすず書房、竹内芳郎・小木貞孝 訳)にはこんなくだりがある。
(私が知覚している対象の活動しつつある)身体の周りには渦が巻いていて、私の世界もそこに引き込まれ、まるで吸い込まれるかのようである......(その渦が巻く場である)世界は単に私の世界ではないし、もはや私にだけ現前しているのでもなく、それはxに現前しているのであり、(そこで)それまで私のものであった事物のある処理がはじめられる。誰かが私の馴染みの対象を自分のために使うのである。しかし、それは誰なのだろうか。私に言わせれば、それは他人であり、第二の私自身なのだ......以降その世界のうちに姿を現し始めている他の行為に現前しているのである......そこにおいてちょうど私の身体の諸部分が相寄って一つの系をなしているように、他者の身体と私の身体もただ一つの全体をなし、ただ一つの現象の表裏となる。
これは「私」が他者と向き合う際に生じる知覚・感覚についての説明だが、剣術の柳生新陰流指南書『兵法家伝書』ではこの状態を「水月移写(すいげついしゃ)」と呼ぶそうだ。意識が水面のように安定していれば、感じようとしなくてもごく微妙な水面のざわめきも感じられる...心を鏡のようにすれば全てはそこに写し出される」という意味だ。
新陰流では、相手に同調すれば、敵の「起こり」(相手側の競争=攻撃行動への移行)に対して、達人は視覚的な体の動きではなく相手の心の揺らぎを感知して、敵に生じるスキに応対(私の側が競争)することを極意にしている。
西村さんは「対戦する剣士が形成する間合いでは、両者それぞれの主観的時空間が重なり合っている。踏み込めば打突が可能な空間的な間と、その瞬間に飛び込めば打突できる時間的な間が、両者の間で重なり合うことによって緊張した『場』が形成される。この共通の時空間は『間身体性』が貫く世界である」として、メルロ=ポンティ哲学を援用する。
かつて実存主義の旗手はメルロ=ポンティではなく、明晰にものを語るサルトルだった。それから半世紀。不思議なことだが、サルトルはほとんど全く顧みられなくなり、メルロ=ポンティは今も読み継がれている。哲学、心理学はもちろん、ほかのさまざまな分野で言及され、介護や本書のようにスポーツにも登場する。
最大の理由は、ミラーニューロンの発見だ。腕を切られた人を見ると、見る者が実際に腕に痛みを感じる、といった知覚現象の脳科学的発見だ。『間身体性』が貫く世界の根拠になる。
本書で西村さんは「同調」「競争」から分析を、武術については剣術を中心に柔術、すもうなどスポーツのほか、囲碁将棋、音楽、連歌などにも適用している。メルロ=ポンティ再入門だけでなく、音楽のポリリズム、文学の「もののあはれ」など訳の分からなかった概念が、一歩踏み出せば手が届きそうになったと評者は本書を読んで感じた。
西村さんには『角界モラル考』(不昧堂出版)、『スポーツにおける抑制の美学』(世界思想社)、『大相撲裏面史―明治・大正期の八百長』(創文企画)などがある。
本欄は『善く死ぬための身体論』(集英社新書)、『数学する身体』(新潮文庫)を紹介している。関連本として『精神としての身体』(市川浩、講談社学術文庫)も薦めたい。
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