このところ「内閣情報調査室」が様々な形で取り上げられている。ヒット中の映画「新聞記者」は主人公の1人が内閣情報調査室員という設定だ。単行本の『官邸ポリス―― 総理を支配する闇の集団』(講談社)や『内閣情報調査室』(幻冬舎新書)では内調がどんなところか、正面から取り上げられている。
そうした中で「真打ち」とも呼べる驚くべき本が出た。『内閣調査室秘録――戦後思想を動かした男』 (文春新書)だ。著者の志垣民郎さんは内閣情報調査室の前身、「内閣調査室」が1952(昭和27)年に室長以下わずか5人で創設されたときのメンバー。いわば「内調の生き字引」がベールに包まれた内調の裏面史を綴ったのが本書というわけだ。編集は全国紙論説委員の岸俊光さんが担当している。
まずは志垣さんの経歴から。1922年生まれ。戦前に旧制東京高校から東大法学部に進み、学徒出陣。陸軍経理学校などを経て、中国戦線で野戦飛行場をつくる任務などに従事。敗戦で捕虜生活を経て帰国し、いったん文部省に就職する。
その後、初代の内調室長になる村井順氏にスカウトされて内調に。村井氏は警察官僚。吉田茂首相の命で内調を創設した人物だ。志垣さんの高校、大学の先輩であり、仲人でもあった。気心の知れた先輩による勧誘というわけだ。
戦後間もないころの日本では、左翼の動きが活発だった。戦争体験者の志垣さんは「どのような主義主張であれ、社会が一色に染まっては危うい」と痛感していた。そんなこともあり、「日本を共産主義革命の脅威から守る」という内調の任務に邁進していくことになる。
当時の志垣さんの職務の一つに左翼文化人の徹底批判があった。月刊誌『全貌』で 1953年から54 年にかけ連載した。戦前は戦争賛美していたのに、戦後豹変した進歩的文化人30数人をやり玉にあげた。これはすべて志垣さんが自分で国会図書館などで過去の文献を調べて書いたものだった。『学者先生戦前戦後言質集』として単行本にもなった。
内調はその後、要員・体制が強化され、6部に分かれた。一部(治安・労働・経済)、国際一部(中国・東南アジア)、国際二部(ソ連・欧州・CIA)、三部(弘報関係)、四部(資料)、五部(学者)、総務部(人事・会計・総括)という構成だ。「学者先生の戦前戦後言質集」が評価されていた志垣さんは五部や三部や六部(審議会関係)を担当した。そして78年まで内調に勤め、その後は社団法人国民出版協会会長、千代田管財(現ALSOK保険サービス)社長、会長なども務めた。
いまになって「内調裏面史」のような本書を刊行するのは、「世の中では内調を面白可笑しく取り上げて揶揄する傾向がある。しかし、創設以来のメンバーは自分であるから世間の皆に事実を正確に知って欲しい」という思いからだという。
志垣さんは長年日記をつけてきた。本書はその記述や内調の部内資料に基づいている。大量の固有名詞が登場するのが本書の大きな特徴だ。その結果、極めてリアルに当時の様々なやりとりが浮かび上がる。
幾つもの興味深い話があるが、中でも珍しいのは東大の「土曜会」関係の秘話ではないだろうか。戦後の東大では学生運動が盛んであり、左翼が大手を振っていた。しかし、それを快く思っていなかった学生たちもいた。彼らは「土曜会」というグループをつくり、雑誌『時代』を刊行していた。
関係していた学生の中には後に各界で活躍した人も少なくない。佐々淳行・元内閣安全保障室長、若泉敬・元京都産業大学世界問題研究所所長、粕谷一希・元中央公論編集長らだ。
志垣さんは彼らを積極的に支援した。具体的には資金提供。本書で志垣さんは「月々4万5千円渡していた」と証言している。52年当時の国家公務員の初任給が7650円だったことを考えると、「かなり多額」と本書編者の岸さんは書いている。
支援した理由について志垣さんは、「当時、東大では左翼勢力が強く、出版物等でも負けそうだった。そこに『時代』一誌でも出れば、一応の対抗策といえた」「反共の組織として(マルクス主義のイデオロギーに反対する)土曜会に援助するのは当然だった」と振り返っている。
周知のように佐々氏は警察官僚などを経て保守評論家として発言を続けた。若泉氏は佐藤栄作首相の密使として、沖縄返還交渉で重要な役割を果たした。粕谷氏は中央公論で保守論者の主張を積極的に取り上げた。志垣さんの撒いた種は、十二分に開花したといえる。
さらに興味深いのは多数の学者たちとの「つき合い」ぶりだ。本書の大半は、その具体的な記述で埋まっている。いつ、だれと、何の話でどこの「店」に行ったか。学者たちが、学者の給料だけではとても通えないような高級店に出かけている様子が活写されている。
25年間にわたって「接待攻勢」が続いたのは、政治評論家の藤原弘達氏。もともと丸山真男門下の俊英。左に行くかもしれない有望な学者にテーマと研究費を与え、保守陣営につなぎとめるというのが志垣さんの仕事であり、藤原さんはそのターゲットの1人だった。「彼が左翼理論家になることを私は恐れた」という。
さてその接待場所だが、「キャバレー」「クラブ」から「福田家」「ふくでん」「河庄」「大野」などの高級料亭まで多彩。「さんざん飲み歩いた」という。本書では100回を軽く超える飲み食いが掲載されている。掲載されているのは一軒目の店だけで、そのあと毎回2、3軒の店を回っている。多い時は4軒もハシゴしている。芸者と一緒に京都まで行ったこともある。元はといえば国民の税金だから、よくぞまあ、という気がしないでもない。
とはいえ藤原氏はなかなかしたたか。政治評論は辛辣で、自民党にも遠慮がなかったというから一筋縄ではいかない。
本書ではこのほか、志垣さんが委託研究の世話をした著名人が山のように出て来る。会田雄次、石川忠雄、猪木正道、江藤淳、村松剛、衛藤瀋吉、林健太郎など有名な学者、評論家、マスコミ関係者127氏について「あいうえお」順に実名入り。各氏についてデータベースのようにナンバーが振られ、詳細な報告が続く。会合の日時、飲食した店、話した内容も出てくる。本書の圧巻部分だ。ほとんどは保守の論者であり、彼等との緊密な情報交換を続けつつ、世論工作を図ろうとしていたことがわかる。
内調の「学者担当」というのは、単に学者を接待すればよいというものではない。本誌の記述を読んでいてわかることは、志垣さんが彼らと対等に話すだけの幅広い知識を持っていたということだ。政治、経済、外交、防衛、教育などの永田町・霞が関界隈の話題だけでなく、時には文化芸術にも及ぶ。心理学者や文化人類学者なども登場する。進歩派と見られていた学者名も散見される。また、さる登場人物の名の注釈には(ヤン・デンマン)と書かれていた。外国人の特派員だというふれこみのはずだが、日本人だったということか。
志垣さんは戦争に負けて帰国した後、あの戦争は何だったのか、なぜ負けたのか、疑問で胸がいっぱいになり、すぐに大学に戻ることが出来なかったという。しばらく自宅でひたすら本を読んでいた。
高校、大学時代からの親友が、日銀に勤めながら『戦艦大和ノ最期』を書いた吉田満氏だった。
本書に登場する膨大な数の「知識人交友録」を見ていて、これは彼らと対等に話せたインテリの志垣さんだからできたのだなということに思い至る。
本書には「委託費」を受け取らなかった知識人、委託費のことを切り出すことがはばかられた碩学の話も出てくる。そのあたりも含めて本書は、単に内調の裏面史というだけでなく、戦後日本の知識人の裏面史にもなっている。
「内調と何らかの関係を持った知識人は少なくないが、それを公にした者はほとんどいない」(岸さん)からだ。
なお、こうした内調の活動は67年9月16日の朝日新聞が社会面トップで取り上げ、内調が共産圏情報と交換で研究費を援助するなどと、露骨な誘いかけを強めている、と書かれたことがある。隠密活動が世間に出た珍しいケースだ。その結果、委託研究を尻込みした学者もいた。
今や本書に登場する学者らの大半は他界しているが、教え子はまだまだ現役。その中には恩師の後をついで教壇に立っている人も少なくないはず。本書を複雑な思いで読むことになりそうだ。出版元は「戦後思想史を塗り替える爆弾的史料」とうたっているが、あながち誇張ともいえない気がする。
本書の編者を務めた岸さんは、全国紙の論説委員であり、現代史の研究者。佐藤栄作政権時代に内調が知識人に委託した「核保有研究」について調べているうちに、元内調主幹の志垣さんと接点を持ち、今回の出版に至ったらしい。
本書を手に取っていちばん肝を冷やすのは現在、内調と密かにつながっている学者らかもしれない。しかし、心配には及ばない。岸さんは「今後、情報機関の記録がこれほど詳細に明かされることはあるまい」と記している。
なお、本書では内調とCIAとの密接な関係にも触れられている。CIAは毎年3人の内調メンバーを米国に招き、「研修」をしていたという。志垣さんも1959年に50日間の研修を受けており、その時の細かい日程や研修内容も掲載されている。
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