4月1日以来、新元号「令和」の話題が尽きない。初めて出典が漢籍ではなく日本の国書『万葉集』から取ったということで、『万葉集』もにわかにブームになりそうな気配だ。
一部で新元号の考案者と報じられた文学者の中西進さんが書いた『万葉の秀歌』(ちくま学芸文庫)とともに重版が決まったのが本書『万葉集から古代を読みとく』(ちくま新書)である。
著者の上野誠さんは奈良大学教授(国文学)。しかし本書は普通の『万葉集』の入門書ではない。古代社会において歌とは何か、古代社会において『万葉集』とは何であったのか、を説いた異色の『万葉集』解説書だ。何せ書き出しが「新海誠監督の映画『君の名は。』(二〇一六年)を見た」から始まるのだから。
この映画のモチーフは『万葉集』なのだという。映画を見ての感想をこう綴っている。
「まいった。すごい――。折口信夫が、今生まれたら、国文学とか、民俗学とか、そんな陰気な学問はしないだろうなぁ。アニメーション映画の監督を目指しただろう。それにしても、日本も捨てたもんじゃない」
映画のタイトルのもとになっているのは
誰(た)そ彼と 我(あれ)をな問ひそ 九月(ながつき)の 露に濡れつつ 君待つ我を
という歌の「誰そ彼」という言葉だそうだ。訳すと、「誰なのかあの人はなどと、私に聞かないでおくれ。秋深まる九月の露に濡れながら、あなたを待っているこの私のことを」となるという。
映画では主人公の二人の肉体と魂が本人の意志とは無関係に入れ替わる。その時、「私は誰なのか」「あなたは誰なの」という言葉が投げかけられる。映画の主人公は、自分では問いかけるのに、相手からは聞かれたくないというのだ。この矛盾がドラマになっている、と指摘する。人と人とが結ばれる最初の言葉こそ、「君の名は?」なのだ、と。
さらに、この物語には、記憶、言葉による結びつきで、現代と古代という結びがあるという。そして、消えゆくことばを未来に残すという観点から『万葉集』の成り立ちを解説する。
男と女、神仏と人、天皇と臣下の心を一つにするのが、古代社会における歌だという。『古今和歌集』の仮名序の以下の訳文を引用し、歌を未来に残すということは、心情を未来へ伝えることだと強調している。
「やまとうたというものは、人の心を種として、そこから生じて、人の心に芽生え、人の口から出て無数の葉のごとくなっていったものなのだ。この世に生きる人という人は、さまざまな出来事に遭遇して、その心に思ったことを、見たこと、聞いたことに託して言い表してきた。これこそが歌なのである。(中略)力ひとつ入れず、天地の神々の心を動かし、鬼神をも感動させ、男と女の間をやわらげて、猛々しい心さえもなごやかにするもの。それが歌なのだ。」(仮名序、小沢正夫・松田成穂校注・訳『古今和歌集[新編日本古典文学全集]』(小学館)
以下、歌集誕生の条件、歌の流通チェーン、木簡に書かれた歌など考古学とも連携した最新の『万葉集』研究について紹介している。
後半は日本語を漢字で書く工夫、日本型知識人の代表として山上憶良の思考法について詳述している。憶良による漢文の序文に、万葉仮名で記された和文の歌という組み合わせは、『万葉集』にも出てくる。理は漢文、情は和文が担った。
上野さんは「『万葉集』が、日本精神の書であるなどというのは、いわれなき俗説、妄言である。もし『万葉集』に、日本的な部分があるとすれば、私は、その組み合わせの味わいにあると考える」と書いている。
今回の新元号「令和」も『万葉集』の序文の一部から取られ、元になった漢籍の存在が指摘されている。中国発祥の漢字から我々は逃れることはできない。思考の大部分は漢字を組み合わせた概念を操作することで成立する。それらは営々と先人が編み出してきたものだ。
万葉ブームが底の浅い日本回帰に止まらないためにも、本書が重版された意義は大きい。
当サイトご覧の皆様!
おすすめの本を教えてください。
本のリクエスト承ります!
広告掲載をお考えの皆様!
BOOKウォッチで
「ホン」「モノ」「コト」の
PRしてみませんか?