そこのけ、そこのけ・・・というのはお馬さん。こちらはもっとすごい。江戸時代に海の向こうから巨体の象がやってきた話だ。『享保十四年、象、江戸へゆく』(岩田書院)。タイトルから「のっし、のっし」という重々しい動きと地響きが聞こえてくる。思わず手に取ってしまった。
五代将軍綱吉はイヌを大事にしたそうだが、八代将軍はゾウに興味を持ったのか。はるばる海を越えて来日したのは吉宗の時代、1728年のことだ。
本書によれば、江戸幕府が1726年12月、「東京船」の船主・呉子明という人物に象を日本まで届けるように要望した文書が残っている。その後、呉から返事が届く。通訳によれば以下の内容だった。
「象の子を引き連れて来れるかとのお尋ねですが、この獣はシャムが産地であり、中国の諸省にはなく、もし引き連れて来いと仰せでしたら、私が引き受けて参りましょう」
象一頭は牛10頭の大きさがあり、大船を仕立てる必要がある、そのために銀百貫目余りの金がかかるなどコストを示している。交渉が成立したのだろう、28年6月13日、唐船が7歳の牡象と5歳の牝象を乗せて長崎に入港した。
牡象は長さ一丈(約3メートル)、背丈が五尺五寸(約1.6メートル)。出港地は今のベトナムのハイフォン付近の広港と呼ばれた港。元々の依頼文に「東京船」とあるのは当時のベトナムが「東京国」と言われていたことと関係がありそうだ。東京国の船、という意味だろうか。
実際に象を日本にもたらしたのは、清国の商人、鄭太威という人だった。彼は、ベトナム方面で活躍していた鄭氏グループの一員。来日時に鄭は、入国に必要な「信牌」を持っていなかったという。したがって、幕府の求めに応じたというのは後付けで「珍品」を持っていたがゆえに入港できたとの見方もあるようだ。鎖国日本も、清とは通商関係があったわけだが、当時の情報や交易網の意外なほどの国際的な広がりを再認識させられる。
長崎にはベトナム人の男女2人の象使いのほか、通訳もやってきた。ベトナム語―中国語-日本語でやりとりする。象はしばらく長崎にとどまり、そこで新たに日本人の世話係が養成されたようだ。唐人から提出された「象の扱い方について」の詳細な注意書も残っている。
・象は青草を毎日180キロほど食べる。冬になって青草がなくなったら、籾を穂茎とともに、あるいは藁、竹の葉、このほか青菜の類や大根などを食べさせる。 ・清水を桶に三杯ほど毎日飲む。 ・飼いならされた象は、走り出さない。 ・象の力は鼻に集中しており、虎やその他の猛獣も鼻にて巻き跳ね上げてしまう。 ・象の使い方は、100日ほどで学習できる。 ・象は広南の言葉しかわからない。日本人もまず広南の言葉で一通り言い聞かせ、その後に同じことを日本語で教えれば、日本語を理解するようになる。
牝象は9月に死んでしまい、翌29年3月13日になっていよいよ牡一頭だけで長崎を出て陸路で江戸に向かう。本書にはその道中記が克明に紹介されている。各藩が記録を残しているのだ。毎日、3~5里ずつ、そろりそろりと前進した。
途中、京都では御所に立ち寄り、中御門天皇らが見物している。その時の「象舞台平面図」、すなわち席図も残っている。見物後に天皇が残した和歌も掲載されている。
「時しあれは人の国なるけたものもけふ九重にみるがうれしさ」
本書の著者は、和田実・豊橋市二川宿本陣資料館主任学芸員。象が江戸に向かうときは愛知県を通ったこともあり、当時のことを詳しく調べている。どうやって河川を渡ったのか。
富士川渡河では、「船橋」を採用したという。船を一列に並べ、その上に板を架けて橋とした。その時使われた板や杭のサイズも細かく記されている。人足1900人が動員されたという。
こうして象は長崎から1400キロを歩き続け、ついに5月25日、江戸に到着する。健脚ご苦労さまだ。そして27日には、象は桜田門から江戸城に入り、大広間に召し出され、将軍吉宗の象見物が行われた。官位が六位相当以上の有司が見物を許されたという。幕府は翌年、象飼育のために金二百両の予算を計上したそうだ。象がその後どうなったかも記されている。
本書のあらましを読んで、たいがいの読者は感心するのではないだろうか。江戸時代の大イベント、象来日について、きわめて詳細な記録が残っていることに。本欄で紹介したのは一部であり、通過地ごとにさらに膨大な文書が書きとめられている。
浮かびあがってくるのは、幕府や各藩役人たちの几帳面さだ。彼らがいろいろ書き残し、丁寧に保存したからこそ、リアルに290年前の象騒動を追体験できる。昨今、公文書のずさんな扱いが目立つが、霞が関の官僚は江戸のお役人を見習ってほしいものだ。
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