なんとも不思議な小説を書いたものである。松浦寿輝さんの前著『名誉と恍惚』(新潮社、谷崎潤一郎賞)は、日中戦争さなかの上海を舞台にした一種のスパイ小説だった。そこから一転......。
本書『人外』(講談社)は「にんがい」と読む。「にんがい」は人でなし、という意味。本書の主体は、アラカシの枝の股から滲みだし、ビーバーのような水生獣のかたちをとっているが、いくつもの人間たちの意識の集合体という存在だ。これはもう人ではないだろう。
人外は川の上流から下流へと荒廃した世界のなかを横切ってゆく。子どもの死骸がよこたわっている川の中州、死体を満載した列車、ひとけのない病院、廃墟となった遊園地......。いったい何が待ち受けているのか。現実と幻想が一体となった叙述のなかで、時がゆっくりと流れてゆく。
松浦さんはフランス文学が専門の東大名誉教授。作家として多くの作品を残しながら、詩人としても高見順賞や萩原朔太郎賞を受賞するなど実績がある。本書の文体にも詩文が一体となった美しさとみずみずしさが感じられる。たとえば、こんな一節。
「わたしたちの頭上でガマの穂が茎をおおきくしなわせ、頭のすぐ近くまで垂れさがって風にふかれ、ぶらんぶらんとゆれているのをながめるともなくながめていた。穂の下部は雌花が固まっていて赤褐色でふとい。上にゆくにつれて穂はだんだんほそくなり、雄花が集まる先端には黄色い葯が萌えでている。受粉の季節なのだとおもいあたる。その葯の黄色の濃さとなまなましさがなにか胸ぐるしい想いをさそう。性のいとなみを示すたけだけしい色だった。色はむごい、とおもった。世界に色があるということじたい、たぶんなにか途方もなくまがまがしいことなのだ、と思った」
松浦さんの小説世界は多彩だ。2004年に発表した『半島』(文藝春秋)は、大学教師を辞した主人公がある半島に移り住み、現実と非現実を行き来するという小説だった。かと思えば『名誉と恍惚』は、警察官が登場する徹底したリアリズム。そこから本書は逆立ちしたような幻想味。この振幅の大きさは同じ書き手によるものとは思えないほどだ。本書の語り手は神なのか獣なのか、もうヒトではない。しかし、この非現実のような世界のしっかりとした感触はどういうことだろう。
ヒトでないものを通して、人間の魂について書かれた傑作と評したい。
最初、奇妙な設定と緩慢な文体に慣れず、敬遠していたが、読みかえすうちにはまってしまった。じっくりとこの日本語をあじわってもらいたい。
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