ケースを含めると厚さ約7センチの文字通りの大著である。消費税込で5400円という文芸書にしては破格の値付けもあり、買う人を選ぶ本でもある。だが、思い切って買い求め、読み始めると、麻薬のようにじわじわと虜になること間違いない。
『名誉と恍惚』というタイトルからは想像もつかないが、舞台は日中戦争のさなかの上海。共同租界の警察組織である工部局に勤める日本人警官・芹沢一郎は、陸軍参謀本部の嘉山少佐に呼び出され、上海の闇の世界を牛耳る秘密結社青幇(チンパン)の頭目・蕭炎彬(ショー・イーピン)との面会を要請される。本来なら日本大使館なり、しかるべき機関がすべきことだが、嘉山は芹沢の出生の秘密をちらつかせ、強引に引き受けさせる。芹沢は人には明かせないコネクションを持っていたのだ。しかし、仲介したことから、警察に追われる身となり、荷役作業をする苦力、人目につかずに済む映写技師となり、苦難に満ちた潜伏生活に入る。
戦前、東洋の魔都と呼ばれた上海の光と影に満ちた街と人々の描写が圧巻である。なにしろ、ごろつき上がりの蕭炎彬が行政、金融、新聞、映画など表の世界の顔役でもある腐敗しきった街である。もっとも西洋列強と日本が租界を作り、半植民地として支配しているのだから、中国だけの責任ではない。ここではなんでもありなのだ。
実は芹沢は日朝の混血児だった。東京の大学を出て警視庁の警察官となり、上海に派遣されたのだったが、今や祖国に捨てられた、自らの名前をも捨てた境遇。はたして生き延びる術は残されているのか。
上海の路地と雑踏を芹沢が駆け巡る。文芸書でありながら、活劇とミステリーの面白さも満載。会話にかぎかっこ(「 」)を一切使わず、すべて地の文で処理する文体の魅力も特筆すべきことだ。
松浦氏はフランス文学が専門で東大名誉教授。一方で、詩人として高見順賞や萩原朔太郎賞、鮎川信夫賞、作家として芥川賞や読売文学賞、評論・研究で吉田秀和賞や三島由紀夫賞、毎日芸術賞特別賞など、幅広い文芸分野で主要な賞を受賞してきた。本作もすでに谷崎潤一郎賞を受賞ずみ。さらにハイレベルな栄典にまた一歩近づいたといえるだろう。
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