夏目漱石は幼児のとき、新宿の養父母の家で暮らしていたことがある。内藤新宿仲町にある、維新前は伊豆橋という妓楼だった家だ。自伝的小説『道草』には、2階の格子窓から通りを見下ろした記憶や目の前のお寺にある大きな地蔵によじ登ったことが描かれる。この寺は地下鉄新宿御苑駅近くにある太宗寺であり、境内に鎮座する地蔵はいまも健在だ。
内藤新宿は、江戸時代以来遊郭が軒を連ねる色里で、本書『新宿「性なる街」の歴史地理』(朝日新聞出版)によると、明治中期には全部で53軒あり、そのうち仲町(太宗寺入口~今の御苑大通りあたり)には17軒の貸座敷(遊郭)があったという。地図にも太宗寺が遊郭地域の中心付近に明示されている。品行方正、謹厳実直な漱石が、ごく一時期ではあるが、遊郭のど真ん中で育った、とは意外だが、本書で改めてその事実を確認できた。
新宿の歓楽街、ことに性を売り買いする場所の歴史、位置、変遷を調べあげた労作。著者の三橋さんは、大学でトランスジェンダー(性別越境)や売買春の歴史を教える研究者であるが、かつては新宿歌舞伎町の女装スナックで遊び、お手伝いホステスもした、この世界の通であるだけに、日のささない路地裏をくまなく歩き、聞き書きにもリアリティがある。たたずむ女たちの不鮮明な写真や同じ場所の現在の姿、詳細な地図が貴重だ。
「赤線」とは、公認の売買春地域のことだが、戦後になってできたと知って不明を恥じた。戦前のそうした場所は遊郭であり、赤線は「太平洋戦争後の1946年12月から、売春防止法が完全施行される直前の1958年3月末まで、日本社会に存在した事実上の売買春地区で、警察の監督(地域限定・営業許可)のもとで、特殊飲食店(後にカフェー)に勤務する女給が客と自由恋愛をする(したがって店の業者は何ら関知しない)という建前で成り立っていた売買春システム」という。営業許可区域を地図上に赤線で区切ったからその名がついたとされる。新宿のように遊郭地域から発展?したところが多いが、玉ノ井(墨田区)のように私娼街がルーツのところもある。
東京湾沿岸の埋め立て地にあった洲崎も赤線地帯としてよく知られた。三橋さんは新宿のスナックで年輩の客から、一日で新宿と洲崎をはしごできたと聞き、驚く。今、洲崎の現地は周囲も埋め立てられ、すっかり様子が変わり、最寄りの都下鉄東西線東陽町駅からもかなり歩く。しかし、当時は新宿から都電に乗れば、1、2回乗り換えるだけで洲崎にわけなく着いた。朝、新宿で遊んだ後、都電に揺られながらウトウト、乗り換えの門前仲町あたりで腹ごしらえして元気回復、午後には洲崎に到着、またひとふんばり、というわけだ。東京は、明治後半から都電がほぼ全廃した昭和40年代あたりまで、都電(市電)のネットワークが縦横にはりめぐらされていた。歓楽街の近くには当然、都電の停車場がある。洲崎だけでなく、亀戸や鳩の街(墨田区)も、都電を使えば都内のどこからでもすんなり行きつけるのだ。まさに「欲望は電車に乗って」(章のタイトル)だ。
いっぽう「青線」は警察に黙認されない非合法な売買春地区で、街娼がたむろする。建前は飲み屋であり、1階のカウンターで酒を飲ませ、2階ないし3階が売春の場所というのが多かった。新宿のゴールデン街はかつて青線区域だった。なお、ゴールデン街わきの木立のなかに緩やかにカーブして続く遊歩道があり、「四季の道」と名づけられているが、この道は都電の回送線の跡地だ。都電と歓楽街の縁は深い。
赤線は売春防止法で消滅したが、その最後の日の虚実をめぐる調査も興味深い。「赤線最後の日 昭和33年3月31日」(日活)というタイトルの映画があったように、同法施行の前日の3月31日が営業終了日とする回想や記録が多い。昭和史の大家、半藤一利さんにも、鳩の街で女たちと蛍の光を歌って迎えた赤線最後の日の3月31日、という記述があるという。しかし、当時の新聞などを調べてみると、実際は多くの地で1、2か月前に繰り上げ廃業していた。新宿は1月31日、鳩の街は2月28日だ。なお、鳩の街を愛した作家永井荷風の日記「断腸亭日乗」の2月28日、3月31日の項にも、鳩の街の文字はない。「荷風山人 この年、傘寿(数え年80歳)、赤線に足が向かないのも当然だろう」と三橋さんは記す。
売春防止法廃止後のゴールデン街の様子の一端は、本欄掲載の『私の昭和史』(岩波新書)にも出ていた。
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