古本屋というのはなんだか謎めいた商売だ。山と積み上げた古書の奥で、手元の資料に目を落としつつ、時折、お客の様子をうかがっている。ふらりと訪れる貧乏客など大した買い物はしないから、一体どうやって生計を立てているのか、そこが謎なのだ。
かつて出久根達郎さんの『古本綺譚』を読んだときのことを思い出す。古書店主というのはいつかとてつもない掘り出し物に巡り合うのではないか、そういう夢を食べている人種だというのだ。ある日、思いがけないところから万葉集の原本を入手する、というような...。
本書『文藝春秋作家原稿流出始末記』(本の雑誌社)もそうした古書店主による回顧もの。著者の青木正美さんは1933年生まれ。53年、東京都葛飾区堀切に古本屋・青木書店を開業し、『古本探偵覚え書』(東京堂出版)、『肉筆で読む作家の手紙』(本の雑誌社)など古書関連の多数の著作がある。神保町の業者中心の「明治古典会」の会員となり、のち会長をつとめた。古書業界の生き字引の一人だろう。
本書はそんな青木さんが経験した数々の「奇談」の中でも、特に忘れられない一件について詳述したものだ。
昭和43年(1968年)のこと。池袋西武百貨店の古書市に二百点を超える作家の自筆原稿が出品された。大江健三郎、安部公房、江戸川乱歩、川端康成、井上靖、遠藤周作などなど、同時代の錚々たる作家たちの自筆原稿が一堂に並ぶ。なぜ、誰が、どこから流出したのか。ちょっとした「事件」だった。
その時、安部公房『砂の女』の原稿を落札したのが青木さん。数日後、文藝春秋の社員を名乗る男が原稿を買い戻させてほしいと訪ねてくる...。
本書ではその顛末をミステリー仕立てにして追っている。結論からいうと、一連の自筆原稿類は昭和41年、文藝春秋が銀座から麹町に引っ越す際に処分したはずのものだった。管理部の判断で、有名作家が文藝春秋の諸雑誌に執筆した原稿の山を廃品回収業者に出して処分したが、それが複数の人物を通じて市場に流出することになったのだ。自筆原稿が競売に出されていることを知った有名作家からクレームが入り、文春は回収作業に追われた。当時は肉筆原稿を著者に戻すという慣行がまだなかったのだという。
この流出原稿には「一級品」とそうではないものが混じっていた。ダメなものを業界用語で「首ナシ」と呼ぶことを初めて知った。一枚目が剥ぎ取られている原稿のことだ。がくんと商品価値が落ちる。管理部の担当者は、多くの原稿を「首ナシ」にしたのだが、一枚目を捨て忘れ、全部の原稿がそろっている状態で業者に出してしまったものもあった。それらが市場に出てしまったのだ。
本書は古書業界誌にその顛末などを連載した一文がもとになっている。とっくに時効になった話だが、当時の編集者はさぞかし青くなったことだろう。
著者は肉筆原稿の香りをことのほか愛する業界人だ。様々な書き込みや、直しなどに作家の人間味や執心ぶりがリアルに露呈する。今は各地の文学館、記念館では、そうした文豪たちの肉筆原稿を通して苦闘の跡をしのぶことができる。しかし将来はどうなるのだろう、パソコンから印刷された紙に著者のサインだけという原稿や手紙が飾られるのだろうか?と著者は嘆いている。本書に掲載されている昔の作家たちの肉筆を眺めるにつれ、読者もその思いを共有するに違いない。
当サイトご覧の皆様!
おすすめの本を教えてください。
本のリクエスト承ります!
広告掲載をお考えの皆様!
BOOKウォッチで
「ホン」「モノ」「コト」の
PRしてみませんか?