映画「泥の河」を見た人なら覚えているだろう。舞台となっているのは船だ。主人公はそこで暮らす水上生活者。戦後間もないころの話で、もはや日本では見ることのない生活形態だ。
本書『消えゆくアジアの水上居住文化』(鹿島出版会)は視野をアジア全域に広げて水上に住む人々の近年の動向を精査したものだ。地域にもよるが、ここでも水上生活者はおおむね激減している。
編著者の畔柳昭雄さんは日本大学特任教授で海洋建築学が専門。市川尚紀さんは近畿大学准教授、舟岡徳朗さんは大林組勤務でいずれも建築学科出身。「水上住居」の特異性をプロ目線で長年フィールドワークをもとに研究してきた。
アジアの水上生活者として有名なのは蛋民(たんみん)だ。地理の教科書にも載っている。香港を中心に中国の福建省や広東省あたりまで広く分布し、漁労、交易などを営んでいた。とくに香港のアバディーンは密集地としてよく知られていた。人種的には漢民族で、10世紀ごろに端を発し、一時は100万人ぐらいいたそうだ。香港の人口がはっきりしないということを昔聞いたことがあるが、たぶんこうした人々の実数がつかめなかったからだろう。
さて現在はどうなっているのか。本書によると、中国は革命以降、定住化を進めて大幅減。香港も1970年以降、陸揚げ政策を推進し、90年代には「ジャンク」と呼ばれた漁船の姿はほぼ姿を消したという。かつては香港島に42か所もあった水上集落はほとんどなくなり、どうしても水上から離れられない老人たちが、小型艇を寄せ集めて細々としたコミュニティをつくっているそうだ。大半の元の住民は、水辺の背後にそびえる高層住宅に移ったという。彼らの生活や文化はどうなったのだろう。蛋民の風景はジャッキー・チェン、ブルース・リーなどが主演する香港映画ではおなじみだったが。
海上や湖上で暮らす人々は世界中にいるが、アジアは目立つ。本書は、その理由をいくつか挙げている。漁労生活、少数民族の伝統、気候風土、陸地の害虫から身を守る、など様々。民族的な要因と、地域の風土的な要因に大別される。
中でも興味深かったのは、フィリピンとボルネオに挟まれた海域を拠点とするバジャウ族の話だ。この辺りは一年を通じて28度ぐらいの温かい海域で、海も穏やか。舟で自由に往来できる。かれらのテリトリーは、インドネシアからベトナムあたりまで広がり、国境を越えていた。漂海民だから住民登録もせず、税金も納めない。漁労ではものすごい素潜り能力を持つという海洋民族だ。
もちろん現在は様変わり。大半が定住を強いられ、海辺沿いに高床式の集落をつくっている。著者らは、その間取りや家屋の密集ぶりなども丹念に調査している。この辺りは実に精密で、さすが建築研究者だと感心する。現在は陸から電気を引いて、家電製品も完備した生活。主に親族集団で暮らしており、独自の慣習もあって、子供が悪いことをすると、集落内の牢屋に入れられるそうだ。
本書ではこのほかタイ、インドネシア、カンボジアなどの水上生活者、日本の舟小屋や牡蛎船についても紹介している。いずれも貴重な写真だけでなく、住居や集落の細かな図面も掲載されており、ルポライターなどのノンフィクションとは違った、実生活のリアリティを感じさせる。
こうした世界のユニークな建築についての先行書では『建築家なしの建築』(B・ルドフスキー著、鹿島出版会、1984年刊)が有名だ。本書は「アジア」に、それも「水上生活」に焦点を絞っていることもあり、別の味わいがある。
日本は島国なので、「船」や「海」については様々な研究がある。南方とのつながりでは柳田国男の『海上の道』などを思い出す人もいるだろう。本書では特に触れられていないが、五木寛之氏の『サンカの民と被差別の世界』(講談社)では、今はほとんど消えた瀬戸内海などの「家船(えぶね)」についてかなり詳しく紹介されている。
そういえば最近、BOOKウォッチで紹介した『日本軍ゲリラ 台湾高砂義勇隊』(平凡社新書)に興味深い記述があった。太平洋戦争中に、ニューギニアに派遣された台湾の高砂族兵士とニューギニアの現地人との間ではある程度、言葉が通じたというのだ。本書で、フィリピン南部を拠点に広域に活動したバジャウ族の話を知って、それは大昔の「海の交流」の痕跡だったのかもしれないなどと思った。
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