「進化」という言葉に「心」が並ぶと、違和感を覚える人が多いかもしれない。進化論は骨格などの形態を問題にする学問だ。それが一般的な捉え方だろう。目に見えない心を、進化という文脈でどうやって扱うのか。その上「分かちあう」と来れば、何かの啓発本なのでは、といよいよ拒否反応まで催してしまう。だが、本書『分かちあう心の進化』(岩波科学ライブラリー)の著者・松沢哲郎さんは日本を代表する科学者だ。タイトルへの違和感だけで、敬遠するのは早計というものだ。
松沢さんは霊長類を対象とする比較認知科学の研究者だ。京都大学の霊長類研究所教授などを経て現在、同大学高等研究院の副院長を務めている。比較認知科学。聞き慣れない学問だが、人間と他の生物の認知機構を比較、それを通じて心的機能の発生や進化の解明を目指す。創始者が松沢さんだ。
チンパンジーのアイ。言葉を覚えたチンパンジーとしてニュースになった。そのアイを主な対象にした、松沢さんの40年にわたる研究と成果をまとめたのが本書だ。2017年にラジオ番組(NHK「心の進化をさぐる――はじめての霊長類学」)で語った内容に加筆している。
霊長目ヒト科チンパンジー属チンパンジー。ヒト科ヒト属の人間とは全ゲノムの98.8%が共通する。500万~700万年前に共通祖先から分かれた、進化の隣人同士だ。このチンパンジーと人間の心のうち共通する機能が、共通祖先に由来する。そして異なるところが、枝分かれした後に獲得・発達した機能になる。従来の進化論は形態の変化を追って構築された。それと同じように、「心の進化」も認知形態の共通点と相違点を比較して進化を論じるという訳だ。
では、人とチンパンジーの心はどこが異なるのか。もちろんさまざまな点で異なる。例えば、協力することがチンパンジーにはできない。
松沢さんの研究チームは、心理学でおなじみの「スキナー箱」を改良して、そのことを突き止めた。この箱は、スイッチを押すと餌が出てくる仕組みを、ネズミに学習させる装置だ。研究チームはチンパンジー用の箱を2個用意。チンパンジーAが箱のスイッチを入れると、AではなくBの箱の給餌装置が作動するようにした。Bの箱もAとは逆に設定。2頭のチンパンジーが利他性と互恵性を発揮して協力し、スイッチを互いに入れ合えば、そのつど双方は餌が食べられる仕組みになっている。この利他性、互恵性が「分かちあう心」だ。
2頭は協力することができただろうか。結果はノー。こんな流れになった。まず、2頭は箱の仕組みを簡単に理解。さらに最初は双方がスイッチを入れ合って見せかけの協力がいったんは成立した。ところが、Aが入れてBが食べる、次もAが入れてBが食べるというケースが続くと状況は一変する。Aはやがてスイッチを入れなくなり、Bも入れないままに。結局、どちらも立ち往生してしまったのだった。
このことからチンパンジーには利他性と互恵性の成立が難しいと結論。ひるがえって「利他性と互恵性の成立はヒトには当たり前のものだ。ヒトは(利他性と互恵性の成立の前提条件である)想像力を持っている。相手の心を想像する能力。それこそが、ヒトとチンパンジーとの違いとして特徴的であると分かった」。松沢さんは、この想像力こそ、言葉を獲得するなど、ヒトの心の進化のカギも握るはずだ、という。
ヒトは、チンパンジーとの共通祖先から多くの類似点を継承した。その一方で、強い想像力の獲得を通して、独自の進化を歩んだ。チンパンジーも別の道を選んだ(実はチンパンジーは瞬間記憶に優れている)。本書は、まさに心の進化の分岐点を見せるように、解説する。タイトルを見て感じた違和感や懸念も消えるはずだ。
類書に『ことばをおぼえたチンパンジー』(福音館書店、絵・薮内正幸)『チンパンジーから見た世界』(東京大学出版会)『進化の隣人ヒトとチンパンジー』(岩波新書)など多数ある。
松沢さんはあとがきで、こう記している。「これからどうするのですか、とよく聞かれます。チンパンジーを観察し続けて、ついにチンパンジーになる...(チンパンジーの老人)これも夢ですね」。サル同然の仕業としか思えないニュースに接することが多くなった。そんな当事者たちは、サルになりたいとは決して言わないだろう。
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