明治政府が出来たころ、外交官としての特別な教育、訓練を受けた者はいなかった。薩長の海外留学経験者を中心に一から現場で外交を学んでいった。一方で「外部からの飛び入り人事」もあり、元大名とその一族からも7人が海外駐在の公使に任用された。本書『お殿様、外交官になる』(祥伝社新書)は、肥前佐賀藩の鍋島直大ら藩主経験者がどのような外交官となったかを紹介している。
政府の予算も少ない折、旧大名家なら資産もあり、交際費にもことかかないだろうという観点から「旧大名が公使として送られた」(『外務省の百年』外務省百年史編纂委員会)という。とは言え、オックスフォード大学へ留学した鍋島直大(なおひろ)をはじめ欧米への留学経験者が多く、進取の気性に期待された面もあったようだ。海外経験があり、給料を気にせず外国人を接待できるというのは、ある意味合理的かもしれない。
イタリア特命全権公使(明治中期までは特命全権公使がトップ)だった鍋島直大は明治15年、イタリアから帰国すると妻栄子とともに夫婦で鹿鳴館外交の推進役として脚光を浴びた。イタリア仕込みの社交術が生かされたが、鹿鳴館は批判の対象となり、活動は下火となった。
阿波徳島藩主だった蜂須賀茂韶(もちあき)も鍋島直大と同じオックスフォード大学への留学経験者。明治14年に旧水戸藩主徳川慶篤の長女隋子(よりこ)と再婚するにあたって、隋子は「妾持参」を条件にしたという。自分は肉体の交わりを拒否するというのだ。茂韶はこれを受け入れ、明治15年、フランス特命全権公使兼スペイン、ポルトガル、スイス、ベルギー公使としてパリに妻妾同伴で着任した。プライベートはともかく、仕事では力を発揮し、赤十字への加盟交渉にあたり実現した。帰国後も東京府知事、貴族院議長、文部大臣など要職を歩み続けた。
明治26年に「外交官領事官及書記生任用令」が制定され、試験に合格し、海外での実務経験がなければ外交官や領事館には任用されなくなり、「お殿様外交官」の時代は終わった。
だが現在、必ずしも外務省プロパーでなくても大使になれることをご存知だろうか? 伊藤忠商事の元社長、丹羽宇一郎氏が中国大使に任用されたが、「親中派」の批判を浴びて、自主的に退任せざるを得なかったのは記憶に新しいだろう。本書によると、わが国の大使の数は146名、このうち外務省プロパー組以外の大使は30名で、その内訳は他省庁出身が20人、民間等が10人(2016年3月現在)とのことだ。戦後は外務公務員法により、時の外務大臣が適材と認め、内閣に諮り承認されれば大使、公使になれるのだ。
大使とは日本を現地で代表する立場であり、大変偉い。現地に出向く前などに天皇、皇后にお会いする。大使館の中での「大使」と「その他」との身分差は激しく、通常「大使閣下」と呼ばれる。世間で思われている以上に、「格」が高いポストだ。
著者の熊田忠雄さんはニッポン放送の元報道記者。退職後は世界各地に飛び出した日本人の足跡を調べ、『明治を作った密航者たち』(祥伝社新書)、『そこに日本人がいた! 海を渡ったご先祖様たち』(新潮社)などの著書がある。
外部からの起用について「そのポストが『論功行賞』や『慰労』、『箔付け』などに利用されてはならない」とクギを差している。明治の「お殿様外交官」だって、それなりの仕事をしたのだから。
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