著者の西法太郎さんは総合商社を退職後、ライフワークだった三島由紀夫研究に没頭し、多くの関係者に取材してきた。三島16歳の処女作『花ざかりの森』の生原稿を、2016年に三島の恩師蓮田善明の遺族(「赤ちゃんポスト」で知られる熊本に住む蓮田太二医師)から発掘したことで有名になった。本書『死の貌』の第1章には、その経緯が詳しく書かれている。学習院中等科の少年がペンネーム「三島由紀夫」として誕生する過程がよくわかる。蓮田善明は戦地で終戦時に自決していた。
1970年11月25日の三島の割腹自決事件の当時、西さんは中学生だった。高校生の時に遺作『豊饒の海』を読み、「作家の自死の衝撃が消えずぎゃくにその波紋がひたひたひろがっていた」と書いている。
三島と川端康成の因縁については、これまでに多くの人が指摘している。「川端さんはノーベル賞を貰っていなければ死なずに済んだ。三島君はノーベル賞を貰っていれば死なずに済んだ」とは、大岡昇平がドナルド・キーンに語ったことばだそうだが、二人の間にノーベル賞をめぐって確執があったという。著者は川端の代表作の一つ『眠れる森の美女』が三島の代作ではないかという説を検討、日本を代表する二人の文学者のねじれた関係が、死後のいまも続いていると指摘する。
読み応えがあるのは、初代内閣安全保障室長となった佐々淳行氏からの聞き取りをもとにした論考だ。佐々氏は三島とも親交があり、割腹事件当時は警視庁人事課長として現場にかけつけた。警察は、三島とともに自衛隊の市ヶ谷駐屯地に入った「楯の会」をマークしながら、事件は起きた。西さんは「国家による未必の故意」ではなかったかと推測する。「国家の権力中枢は事前に、三島が自決したいのなら、そうさせてやろうとハラを決めていたのではないだろうか」
本書の表紙には三島がモデルとなったブロンズ裸像の写真が使われている。70年1月から9月まで毎週日曜日、三島は彫刻家のアトリエに通い、ポーズをとったという。「富士の見えるところへ墓とブロンズ像立てよ」と遺書に残した遺言は果たして実現したのか......。
憲法改正と国軍の創設を主張し、三島は自決した。それが安倍首相の政治日程にあがっているいま、三島が生きていたらどう思うだろうか、知りたくなった。
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