新宿・歌舞伎町は、東京に数多くある盛り場のなかでも独特のカオス感が支配している。それがネットやガイドブックで「エキゾチックな魅力」に転換されて外国人観光客らの訪問も増えた。近年進んだ再開発のせいか、若者の姿も多くなっている。
歌舞伎町の原点は終戦後と意外に歴史は浅い。本書は歌舞伎町の知られざる歴史をたどり、成り立ちの背景に戦後の混乱と、台湾人の活躍があったことを明かしている。
歌舞伎町が占める一角は、江戸時代の宿場町、内藤新宿に近く、浅草のような昔からある歓楽地の印象だが、そうした歴史はなく、戦前には高等女学校やバス車庫が目立つ程度で、あとは小さな商家などが点在するエリアだったという。
戦後、新宿駅周辺から歌舞伎町一帯はほぼ焼け野原。いくつかの場所で復興の動きが始まり、そのうちの一つが、新宿駅西口近辺に現れた闇市のマーケットだった。その担い手の多くは、戦前から日本に滞在していた台湾人の「内地留学生」。終戦後も帰国できずとどまり、"解放国民"の特権を生かし、日本人には扱えない統制品を仕入れ商売に乗り出した。
新宿西口はその後、大規模開発事業の対象地区となり立ち退きを迫られる。新天地となったのが歌舞伎町のエリアだった。角筈という地名だった場所などを合わせ1948年(昭和23年)4月に「歌舞伎町」に変更された。名前の由来は復興策の一つとして歌舞伎の劇場建設が予定されていたからだ。
その後、歌舞伎劇場建設はとん挫したものの映画館や劇場がつくられ、周辺には飲食店や娯楽施設が続々誕生する。「スカラ座」「でんえん」「らんぶる」などの名曲喫茶や歌声喫茶の「カチューシャ」、そして「風林会館」「アシベ会館」「地球会館」。これらを創業したのはいずも若い台湾人たちだった。
台湾人たちが歌舞伎町開発を導く事業に成功したことには、強い同胞ネットワークと、資金調達を助ける独自の金融組織があったことが大きく貢献している。週刊ポスト(2017年11月3日号)の「ブックレビュー」でノンフィクションライターの与那原恵さんは「台湾人華僑のネットワークや金融組織なども興味深いが、彼らのビジネス哲学は利益を求めるだけではなく、人が集う場としての魅力、広い意味でのまちの文化をつくろうとした気概を感じる」と述べている。
著者の一人、稲葉佳子さんは、法政大学大学院デザイン工学研究科兼任講師で新宿区多文化共生まちづくり会議委員を務める。もう一人の青池憲治さんはドキュメンタリー映画監督。
馳星周の『不夜城』などで、歌舞伎町の裏社会にうごめく台湾・中国系の人々の存在が有名になったが、本書を読むと、その誕生の時から実は台湾系の人々によってつくられた街だということがよくわかる。
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