10月が近づくと、毎年のように村上春樹のノーベル賞が話題になる。今年こそ取るのではないかと言われて、もう何年になるだろう。
取れない理由として、「ムラカミは軽すぎる」ということがしばしば言われる。
「生」と「死」の世界が非常に近い
近年のノーベル文学賞は、圧政と闘う作品や、現代史と正面から向き合う社会性のある作品が高く評価される傾向がある。加えて、地域や国家、民族のオリジナリティが強ければ、なお好まれるようだ。日本を離れてニューヨークを拠点に執筆し、ポップな文体で50か国語以上に翻訳されている村上作品は、その「わかりやすさ」と「脱日本」、あまりに「国際的」ゆえに、ノーベル賞選考委員のお眼鏡にかなっていないのではないか、というわけだ。
本当に村上は「軽くて無国籍」なのか? そう思いながら、久しぶりに小山鉄郎さんの『村上春樹を読みつくす』を手に取ってみる。著者は共同通信社の文学担当記者。『文学者追跡』『白川静さんに学ぶ 漢字は楽しい』などの著書があり、当代屈指の文学ジャーナリストとして知られる。
小山さんは、村上作品の最大の特徴として、「『生』の世界が『死』という異界と非常に近いこと」を挙げる。生と死、すなわち人間のあり方の根源を常に意識しているのが村上というわけだ。村上作品には地域性や社会性の有無にとどまらない、存在論的な深さがあるということだろう。
村上は、アメリカ文学の影響下に小説を書いてきた人、とみなされることが多い。小山さんもそのことを否定しない。しかし取材を重ねれば重ねるほど、村上作品を貫く「日本的な力」を実感するとも記す。
「村上の長編は基本的に日本を舞台にして書かれているが、つまりそれは日本とは何か、日本人とは何かを追究し続けているからなのである」
そして村上のこんな言葉も紹介している。「物語を作っていくというのは・・・自分の魂の中に降りていくという作業・・・そういう作業というのは、世界中、どこでも同じ・・・魂まで降りていくと、そこは同じ世界なんですよ」
新作のたびにロング・インタビュー
小山さんは、村上が新作を出すたびにロング・インタビューしている。本書出版時で25年を超える。ともに1949年生まれの団塊・全共闘世代。村上作品の登場人物は、「激しく自己主張するわけでなく静かに生きる人が多いため、学生運動などには関心のない作家と思われがちだが、村上を取材していると、団塊世代のことや学園紛争があったころの話になることが多い」とも記す。
実際、単行本と文庫本を合わせると、日本だけで1000万部を超えた『ノルウェイの森』は1969年から70年を舞台にした話だ。『1Q84』を執筆中の村上は、「団塊世代の小説家として、団塊世代の問題に落とし前をつけたい」と小山さんに語っていたという。
本書は2008年春から1年間、地方紙向けに小山さんが書いた連載をもとにしている。日本のマスコミのインタビューには、頻繁には登場しない村上だが、小山さんとの折々の対話は例外だ。それだけに、かなり踏み込んで本音を語っている。質問と回答がかみ合い、両者が共振し、小山さんが村上の魂の深いところまで降りて、寄り添っている様子がうかがえる。いつのまにか、小山さんの魂に村上が乗り移り、自作を語っている風情もある。
はたして「ムラカミは軽い」のかどうか。ノーベル賞の選考委員にも、ぜひ読んでもらいたい本である。