著者の二井さんは、1968年10月に暮しの手帖社の内定をもらいます。薄いけれど、高級な紙に和文タイプで「貴君をスタッフの一員として迎える」とありました。直後まずはアルバイトとして東麻布の研究室に勤務。それから花森安治さんが亡くなる1978年1月まで、1年あまりの肺結核入院の期間を除き、暮しの手帖社で花森さんの叱声を浴びながら、ときには慈愛に満ちた言葉もかけられながら、同社を盛り上げてきました。
『暮しの手帖』はベビーカーやTシャツ、電子レンジなど、消費者目線でどれがお薦めかを徹底したテストで明らかにすることで知られていました。二井さんがよく覚えているのは、「蛍光灯をテストする」。2年半もかかった大がかりなものになりました。当初テスト結果が思わしくなく、花森さんの怒号が止みません。テスト方法を変更し、点灯7500時間に及ぶロングラン・テストの末、ようやく記事になりました。このように妥協を許さない公平な目で製品と向き合うという編集方針、そのため広告をとらないのが『暮しの手帖』でした。そうした哲学を、社内の隅々にまで浸透させるために行動した花森さんのエピソードをいくつも紹介しました。
そんな花森さんの忘れられない言葉の数々も収録しています。たとえば、「分かりやすい文章を書け。しゃべっているように書け」。着るものについては、「みんなと同じような格好をするな」。「教えているヒマはない。ここに手本がいる。盗め」。編集会議でいいプランが出ないと、必ず口にしたのが「切って血の出るようなプランを出せ」でした。二井さんは、事あるごとに、花森さんのことを思い出します。花森さんだったら、こんなときどんな判断をし、何をいうだろうかと。「花森さんが、いま生きていたらなあ」。
■目次
はじめに/「暮しの手帖」に入るまで/暮しの手帖研究室/怒られてばかりだったけれど/花森さんの偉業/花森さん語録/花森さんの「遺言」と信じて/略年譜/あとがき
■著者
二井康雄(ふたい・やすお)
1946年、大阪生まれ。1969年(株)暮しの手帖社入社、編集部に所属。主に商品テストや環境問題関連の記事を担当。連載は藤城清治のカラーの影絵、沢木耕太郎の映画時評などを担当。2002年より本誌の副編集長。2004年からは、本誌記事のタイトル、見出し、自社広告などの書き文字を担当する。2009年7月、定年退職。2011年12月、『花森安治のデザイン』(暮しの手帖社)の編集協力。現在は、映画ジャーナリストとして、ウェブマガジンなどに、映画レビューを執筆。また書き文字ライターとして、映画や雑誌、単行本、演劇チラシ、音楽CDなどのタイトル、見出しなどを手がけ、味のある書き文字で存在感を示している。
書名:ぼくの花森安治著者:二井康雄発売日:2016/7/28定価:本体1400円(税別)