読むべき本、見逃していない?

戦後詩の始まりを確立した伝説の編集者とは

  • 書名 回想の伊達得夫
  • 監修・編集・著者名中村稔 著
  • 出版社名青土社
  • 出版年月日2019年7月 1日
  • 定価本体1800円+税
  • 判型・ページ数四六判・253ページ
  • ISBN9784791771769

 現代詩に関心のある人なら、戦後に多くの詩集などを発行した「書肆ユリイカ」と社主伊達得夫の名前を聞いたことがあるかもしれない。本書『回想の伊達得夫』(青土社)は、伊達とも親交のあった詩人・弁護士の中村稔さんが、伊達得夫の人間像に迫った本である。

『二十歳のエチュード』出版の経緯

 本書の表紙には、少し大きな文字で、こう書かれている。引用しよう。

 「戦後の混乱期、神田の露地裏の木造二階建てのビルにもぐりこみ、自死した原口統三の遺著を出版して出発、不遇の稲垣足穂を愛しながら、窮乏に耐え、無名の若い詩人たちの詩集を次々に刊行し、戦後詩が始まる場所を確立した、特異な出版人・伊達得夫。彼の優しい心と陰影に富んだ人格の謎、不滅の業績を、親交のあった著者が情感豊かに解き明かす」

 簡にして要を得た本書の紹介文だ。

 本書は書肆ユリイカ時代の伊達得夫について記述した第一部と、生い立ちや旧制福岡高校・京都帝国大学時代、出征中の文章などからその人格形成を考察した第二部から成る。

 第一部は、原口統三の『二十歳のエチュード』出版の経緯から始まる。原口は1946年10月25日、神奈川県逗子海岸で入水自殺。その遺著『二十歳のエチュード』は、今日までいくつもの版元から出版されているロングセラーだ。戦後多くの若者たちに影響を与えたと見られ、いわば戦後の「自殺文学」の走りと言っていい。

 中村さんが伊達に初めて会ったのは、46年10月29日、原口の自死の数日後だった。旧制第一高校の寮に伊達が訪ねてきたのだ。原口の遺稿を保管していた友人橋本一明が不在だったので中村さんが応対した。その後、遺稿は伊達が勤務していた前田出版社から『二十歳のエチュード』として出版された。

 初版5000部はすぐに売り切れ、再版5000部も売り切れた。当時、紙がなかなか手に入らなかったので、合計1万部でもベストセラーだった。その後、伊達は独立し、書肆ユリイカを起こす。ユリイカ版『二十歳のエチュード』も発行された。伊達は1961年に亡くなったが、存命中に角川文庫判『二十歳のエチュード』も発行された。本書は誰が著作権者なのか、多額の印税はどう消費されたのか、複数の出版社から同時期に『二十歳のエチュード』が発行された事情などについて、弁護士らしい明晰な論理で推理している。

 書肆ユリイカは、1950年、福田正次郎(那珂太郎)著『ETUDES』(限定500部)、『中村真一郎詩集』(限定300部)、中村稔著『無言歌』(限定300部)に始まり、1954年から55年にかけて『戦後詩人全集』全5巻を刊行、雑誌「ユリイカ」を創刊し、詩書出版社として伝説的存在となった。

 中村さんは「伊達は収支について鷹揚にすぎ、計算について怠惰だったのではないか」と書いている。詩人に惚れやすく、採算を度外視して出版した。貧困と過労が早すぎる死の原因だったとして、友情に厚いその人柄を偲んでいる。

何もなかった稲垣足穂の部屋

 優しさは詩人ばかりにだけ発揮された訳ではない。本書では稲垣足穂についても一章を設け、伊達との親交について書いている。

 伊達は『稲垣足穂全集』全16巻を企画し、死の前年までに7巻を刊行していたが、中村さんら詩人には何も語らなかった。没後刊行された随筆に出会いが書いてあった。

 1946年、「新潮」に載った稲垣のエッセイを読み、伊達は東京・大森の稲垣の部屋を訪ねる。

 「部屋には、何もなかったのだ。湯呑み茶わんだとか、座布団だとか、机だとか、そんなものが何一つ見当たらない。さきのエッセイで、かれに不遇の年月が続いていたことは知っていた。しかし、こんなにさっぱりと何もない生活というものは、もはや貧しさとか、不遇という性質のものではないだろう」

 伊達は稲垣の本を出版するだけではなく、生涯の伴侶をも紹介していた。京都に住む篠原志代さんという女性のもとに稲垣がころがりこんだことは、以前別の本で知っていたが、二人を結びつけたのは伊達だったのだ。

 京都帝国大学時代に西本願寺が経営する「少女感化院」に下宿していた伊達は、少女たちから「先生」と呼ばれていたが、本当の先生、保護司の女性がいた。篠原志代である。その後も文通し、稲垣の本を送ったところ、「稲垣足穂という人に会いたいからつれて行ってくれ」と上京。二人を引き合わせた。稲垣宅の帰り際、伊達はこう話した。

 「五十人の不良少女の面倒を見るより、稲垣足穂の世話をしたほうが、日本のためになりますよ」

 1950年、稲垣は京都へ去った。中村さんは「これほど伊達が敬愛し、面倒をみた文学者がいたことを私は知らなかった。私はその事実を恥じ入る気持がつよい」と書いている。

「戦争は詩ではない」

 第二部では、旧制福岡高校の同級生でつくった雑誌「青々」に寄稿した文章や京都帝国大学新聞に寄稿した随筆や映画評を検討している。「知性の感傷」という随筆は「戦争は詩ではない」という書き出しで始まっている。だが、文章全体は戦争を荘厳な詩としてとらえており、そのことをやがて戦場に向かう伊達に問うても意味はないだろう、としている。

 伊達は幹部候補生として内モンゴルに出征、詳細な日記を書き、それをもとに戦後、いくつかの文章を残している。遺族から提供されたものを中村さんは読み、「私自身が、このまま、この丘の上に咲く一もとの草花に化したかつた」という一節に感銘を受けている。

 復員した伊達が詩に傾倒していったのは、死と向き合う戦場体験があったからに違いないだろう。そしてわが身にむち打ち、詩人や文学者と向き合った。伝説の編集者をよく知る著者ゆえに書き得た一冊だ。

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