本書『夏物語』(文藝春秋)は、タイトルに「夏」があるからと言って別に「ひと夏」の恋やアバンチュールが出てくる訳ではない。主人公の名前が「夏目夏子」であり、物語の舞台が割と夏であることが多いので付けた即物的なタイトルかもしれない。
第一部は2008年夏の数日のことが描かれている。大阪で生まれ育った夏子は、20歳のときに上京して10年。東京・三ノ輪のアパートに住み、アルバイトをしながら一人暮らしをしている。大阪でホステスをしている姉の巻子がもうすぐ12歳になる娘の緑子を連れて東京に来る。豊胸手術のカウンセリングのための上京ということだが、姉妹のやりとりやおしゃべりの中に主人公の生育環境が浮かび上がる仕掛けになっている。
「その人が、どれくらいの貧乏だったかを知りたいときは、育った家の窓の数を尋ねるのがてっとり早い」という書き出しに始まる貧乏自慢が続く。
夏子が暮らしていた大阪の街の描写はこんな具合だ。
「高級なものとはいっさい縁がなく、飲み屋街全体がこう、茶色に変色しながらかたむいているような雑多な密集地帯である」 「一杯飲み屋、立ち食いそば、立ち食い定食屋、喫茶店。ラブホテルというよりはラブ旅館、みたいな廃墟のような一軒家。電車みたいに細ながい造りの焼肉屋......」
歳を偽り、14歳のときから働きながらも文庫本を読み文学に親しんできた夏子の青春。姉は娘にこう話しかける。「夏子は小さい頃から本をぎょうさん読んでて、難しい言葉もよう知ってて、すごい賢かったんやで。わたしは小説とかようわかんけど、すごいんやで、そのうちデビューして、作家になるんやで」。
第二部はそれから8年たった2016年夏から19年夏にかけての物語だ。夏子は33歳のときに小さな文学賞を受賞し、小説家としてデビュー。初めての短篇集がテレビの情報番組で紹介され、6万部売れるという望外のヒットになった。三ノ輪から三軒茶屋に引っ越し、エッセイなどの短い原稿を書き、なんとか文筆だけで生計を立てている。しかし、肝心の小説はなかなかはかどらない。
そんな38歳の夏子がはまったのが、パートナーなしでの出産だった。事情があり、男性を受け付けなくなった夏子は精子提供での出産を模索していた。そんな中、精子提供で生まれ、本当の父を捜す逢沢潤と出会い、心を寄せていく。
一方、彼の恋人である善百合子は、出産は親たちの「身勝手な賭け」だと言い、子どもを願うことの残酷さを夏子に問いかける。
こう書くと、AID(非配偶者間人工授精)をめぐるテーマ小説のように思うかもしれないが、そんなことはない。
編集者として夏子を励ます仙川涼子や一人で子どもを育てる作家、遊佐リカとの交流が手厚く描かれ、作家としての生き方も問うてくる。
ひとりで妊娠して出産してその経緯を書けば、どれだけの女を励ますことになるか、とけしかける遊佐。それに対して「真に偉大な作家は、男も女も子どもなんかいませんよ。子どもなんてそんなもの入りこむ余地がないんです」とたしなめる仙川。
そしてある夏、夏子はひさしぶりに大阪を訪ねる。このために第一部があったことが納得できる結末を迎える。
著者の川上未映子さんは、大阪出身。2008年、『乳と卵』で第138回芥川賞受賞。本作は世界十数カ国での翻訳が決定している。普遍的なテーマとディープ大阪の持つ土俗的な力がマッチして感動を与える。
ディープ大阪に関しては、『大阪』(ちくま新書)を本欄で紹介している。
当サイトご覧の皆様!
おすすめの本を教えてください。
本のリクエスト承ります!
広告掲載をお考えの皆様!
BOOKウォッチで
「ホン」「モノ」「コト」の
PRしてみませんか?