かつて秋田県には八郎潟という大きな湖があった。琵琶湖に次ぐ日本第2の湖だったが、干拓事業により巨大な農地が生まれ、その周囲にかつての5分の1ほどの水域が残り、「八郎湖」と呼ばれている。
八郎潟の最大の特徴は、海水と淡水が入り交じる汽水湖だったことだ。約120種類もの魚類が生息し、漁業も盛んだった。干拓事業のため、海との境は防潮水門で仕切られ、八郎湖は淡水化された。そこにすむ魚はどうなり、何が起きたのかを報告したのが、本書『八郎潟・八郎湖の魚――干拓から60年、何が起きたのか』(秋田魁新報社)である。
著者の杉山秀樹さんは、長く秋田県水産振興センターにつとめてきた技師。センター所長を退任後は秋田県立大学生物資源科学部客員教授(博士=海洋科学)のかたわら、さまざまな自然保護活動に取り組んでいる。
本書は八郎潟から八郎湖への変遷やエピソードを綴った部分と生息する魚類の図鑑で構成されている。ヤツメウナギ、アカエイ、ウナギ、コイ、ワカサギ、シラウオなど魚類119種とエビ、貝類など11種が、杉山さんが撮影した写真とともに解説されている。
本書では行政上の八郎湖だけではなく、海への出入口である船越水道と流入河川を含めて「八郎湖」と呼び、こう整理している。
A 八郎潟=全水面=汽水 B 八郎湖=八郎潟調整池+東西承水路=淡水湖 C 「八郎湖」=八郎湖+船越水道+流入河川=淡水域+汽水域+流入河川
八郎湖の周辺で生まれ育った評者にとって驚きだったのは、今も多くの魚類が八郎湖にいるということだった。干拓後に姿を消したのは、シナイモツゴとゼニタナゴの2種にすぎない。もちろん、漁獲量は干拓前の1956年13952トンをピークに減り、2015年は254トンである。干拓前3000人いた漁業者も200人を切った。それでもワカサギとシラウオを中心に細々と漁業は続いている。防潮水門に設けられた閘門と魚道を通って、一部の魚は八郎湖と海を往来していることなど、研究者が調べた知見がいくつも披露されている。
減る一方の漁獲高が1990年前後に1万トンを超えるという珍事が起きた。ヤマトシジミが大量に発生したのである。1987年に防潮水門の工事があり、その間、台風の影響で海水が湖内に流入したのだ。その結果、調整池全体でヤマトシジミの稚貝が1平方メートル当たり約3000個体の高密度で認められたのである。
この年、夏休みで帰省した評者は父の手製の道具を持って八郎湖に入り、山ほどのシジミを採った。あまりに大量に発生したので漁業者もうるさくなく、地域住民総出のリクリエーションと化したのであった。
杉山さんも「八郎湖が持つ大きな生産能力に驚かされる」と書いている。
「夢よもう一度」と防潮水門の開門を求める声もあるが、干拓地(大潟村)の農業用水の確保のため農水省は首を縦に振らない。このあたりの事情は、漁業者と農家が対立し、裁判の判決が錯綜する長崎県の諫早干拓地をめぐる防潮水門開閉問題とも通ずるものがある。
島根県の宍道湖はかつての八郎潟同様の汽水湖で、とれる魚介類の中から、スズキ、シラウオ、コイ、ウナギ、モロゲエビ、アマサギ、シジミを「宍道湖七珍」と称する独特の郷土の味覚が生まれ、観光資源となっている。
八郎潟があのまま残っていたらと評者は夢想する。いま八郎湖は慢性的な水質悪化とアオコという水草による環境悪化に悩まされている。とはいえ、残された八郎湖にも厳しい環境の中、たくさんの生きものが生き続けている。
干拓前の「八郎潟」と干拓後の「八郎湖」を連続したものととらえ、その価値を学術的に再評価しようと、秋田県立大学の教員と住民有志が中心となり、2018年「八郎潟・八郎湖学研究会」が立ち上がった。情報発信のため、コンパクトで読みやすい本を刊行するのも活動の一つで、「八郎潟・八郎湖学叢書」の第1号が本書である。
版元は秋田の地方紙、秋田魁新報社で、「さきがけブックレット」として刊行された。八郎湖の関係者のみならず、全国の湖沼の環境保護に取り組んでいる人たちに読んでもらいたい一冊である。
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