電車の中吊り広告を見て、心がゆさぶられた。雨が降りしきる野原の中を若い女性が歩いている。どこか思いつめた表情だ。そんな写実風の絵に「出身成分」という白抜きの大きな文字が浮かぶ。
「出身成分」とは、北朝鮮の階層制度とその階層を意味する。北朝鮮に関心があり、関連書を読んできたので評者はすぐにピンときた。しかし、そんなエッジの立ったことばが日本の通勤電車の中に踊る光景は、いささかシュールだ。本書『出身成分』(株式会社KADOKAWA)は、そんな版元による力の入った演出で世に出たばかりの本だ。しかも、「平壌郊外での殺人事件を描くミステリー」となると興味が募る。電車を降りるや書店へ向かった。
著者は松岡圭祐さん。デビュー作『催眠』がミリオンセラー、『千里眼』シリーズが累計628万部という売れっ子作家だ。本書の扉をめくると、「本書は脱北者の方々による、多岐にわたる証言に基づいている」と、およそミステリーらしくない著者のことばが目に入る。そのつもりで読み始めると、これは小説なのかノンフィクションなのか判然としなくなってくる。
簡単にあらすじを紹介する。平壌郊外の保安署員クム・アンサノは11年前の殺人・強姦事件の再捜査を命じられる。保安署員は日本の警察官にあたるが、似て非なるものだ。賄賂が当たり前で、証拠もろくに集めず、自白がすべてというずさんな捜査。そもそも北朝鮮では「人民保安省か国家保衛省による強制連行ののち、名ばかりの裁判を受け、教化所や管理所へ移送されるのが常だった」というから、公式に逮捕されるのも珍しいのだ。
アンサノは犯人として収容されている男に会うが、ずさんで強引な捜査を再確認するばかりだった。捜査の過程で、「出身成分」の壁が見え隠れする。「核心階層」、「動揺階層」、「敵対階層」の3種からなる。「核心階層」は統治階層で、党の幹部や革命遺家族からなり全人口の30%、平壌に住めるのはこの階層だ。「動揺階層」は全人口の5割を占めるが、大部分が地方に住み、特別な許可がなければ平壌に入ることはできない。「敵対階層」は反動分子とされる人たちで、大学進学や昇進資格がはく奪されている。
アンサノの父は医師で「核心階層」に属していたが、大物政治家の暗殺容疑で物証も自白もないまま収容されていた。どうしてここまで熱心に再捜査をするのかと思うが、父への思いがあった。しかし、捜査の成り行きによっては「敵対階層」への転落もありうる。
読んでいてピリピリするだけではない。心がずしんと重くなる。貧困を通り越して、どうやって生きているのかと思うような人々の暮らし。しかも人民班という住民相互監視のシステム。「貴方が北朝鮮に生まれていたら、この物語は貴方の人生である」という帯の惹句に恐怖を覚えた。
著者が脱北者に取材した成果はいろいろな描写にも表れている。経済では私経済が拡大し、「金主(トンジュ)」という富裕層が増えている。携帯電話も200万台を超え、韓国や世界の情報はかなり国民にも伝わるようになり、指導者への忠誠心は薄れている。どこかタガがゆるんでいる。そんな社会情勢が本書の背景にある。
本書の筋は、これ以上紹介できないが、事件の被害者、加害者の像が万華鏡のようにゆらめき、最後は捜査の主体である主人公の国家への忠誠が試される。
北朝鮮といえば、アメリカのトランプ大統領と金正恩委員長が、板門店の軍事境界線上で「歴史的」な会談をしたばかりだが、その評価は揺れている。しかし、国際的な制裁強化が北朝鮮社会にボディーブローのようにダメージを与えていることは間違いない。
テレビに登場する北朝鮮は平壌ばかりで、地方が映されることはない。平壌は壮大なショーウィンドウだ。主人公が上官と問答するくだりが印象に残る。「出身成分はわが国だけです」と言うと、「ちがう。出身の階層により、結婚相手も、学歴も、仕事も、生活水準も、だいたいきまる。日本でもだ」。さらに「核心階層でないと平壌には住めません」と言うと、「東京も土地代が高く家が買えない。貯蓄額に応じ、都会から居住地までの距離がきまる」。このあたりは著者のブラックユーモアか。
それにしても、北朝鮮を舞台にミステリーを書くという著者の発想と取材力、作品の完成度には驚くばかりだ。
本欄では北朝鮮の最新状況について『金正恩』(新潮新書)で、また「核心階層」の中の最高のエリートが脱北して書いた『三階書記室の暗号 北朝鮮外交秘録』(文藝春秋)を紹介済みだ。
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