読み終えると静かな感動と行き場のない怒りがこみあげてくる。『壁の向こうの住人たち』(岩波書店)は読者をそうした気持ちにさせる本だ。著者はカリフォルニア大バークレー校名誉教授の女性社会学者。バークレーはノーベル賞学者を輩出するアメリカ西海岸の名門大学、リベラル派の拠点としても知られている。ヒッピー文化発祥の地で、70年代にはベトナム反戦運動が盛んだった。
本書はリベラル派の社会学者が、それとは正反対の保守派の牙城アメリカ南部のルイジアナ州南西部を訪れて2011年から5年間にわたって調査し、その研究成果をノンフィクションとして書き上げた労作だ。
地元の協力者の支援を得て長時間におよぶインタビューを実施したのは全部で60人。録音をとり、テープから書き起こした原稿は4000ページを超える。本書にはそのうち40人分が反映されている。
リベラル派の社会学者がなぜ、保守派の牙城で調査を行ったのか。メキシコ湾に面するルイジアナは農業と石油関連以外に目立った産業がなく、全米でも最貧州のひとつだ。だが、そこは共和党最強硬派ティーパーティの強固な地盤でもある。州内に立地する石油関連工場からの汚染物質の排出や相次ぐ大事故の発生で、州内には環境が汚染され、住むのにも危険になった地域がある。にもかかわらず、ルイジアナ州や住民は頑強に連邦政府の環境規制に反対している。どうして、そうした矛盾が存在するのか、著者は事実に迫りたいと思った。
アメリカでは共和、民主という2大政党の強弱が地域で明瞭に異なっている。東海岸のニューヨーク、西海岸のカリフォルニアは先端産業が集積する豊かな州で民主党の強い地盤だ。一方、南部のテキサス、フロリダは共和党の地盤だ。テキサスに隣り合うルイジアナも伝統的に共和党が強い。メキシコ湾に面したルイジアナはもともと古い森と湿地帯、水産物に恵まれた自然豊かな地域だった。だが、湾岸に油田が発見されたことで、石油掘削用の油井が掘られ、製油所、石油化学工場などが次々に進出した。しかし、環境規制の遅れや不備から被害が深刻化した。深刻な環境汚染でがん患者が多発していることから「がん回廊」と呼ばれている地域さえある。
この地域でティーパーティを支えるのは中下層の白人労働者だ。熱心なクリスチャンが多く、日曜日には教会に行き、貧しい生活の中からも教会への寄付を欠かさない。だが、連邦や州政府からの見返りは求めず、雇用に悪影響があるからと連邦や州政府による石油関連企業への規制には強硬に反対し、減税や補助金など手厚い企業保護策を強く支持している。重大な環境汚染や掘削ミスによる土地の陥没など明確な被害が続出しているにもかかわらず、である。
著者は緻密なインタビューを通じて住民の心情を淡々と描き出す。善意や他人への思いやりにあふれた人々が、日本でも高度成長時代、全国に広がった同じ深刻な環境被害に悩んでいることを知るといたたまれない気持ちになる。
丁寧なインタビューを通じて知った住民たちの気持ちを、著者は「ディープストーリー」と呼ぶ。それは勤勉に働き続ければ、豊かになれるはずと信じていたアメリカン・ドリームが一向に実現せず、それを信じる人の列の後ろに静かに並んで順番を待っていたのに、次から次へと列の順番を追い越されてしまうことへの焦燥感や強い怒りだった。そうした人々の認識では、列を追い越し、ときには割り込むのは、政府の優遇策を享受する黒人やヒスパニックなどの少数派や移民たちだ。
実際にそうした状況が起きていると確かめたわけではない。FOXニュースなど右派メディアが流すニュースを信じ、税金を払わない連中が社会福祉など税金の恩恵に預かっている、と信じこんでいる。ポリティカル・コレクトネス(政治的な公正さ)と呼ばれる少数派優遇策は心底、我慢ならない。
もちろんこれは急速な勢いで進む産業のグローバル化、職場や工場の省力化・自動化から排除され、割を食ってしまった人々の姿だろう。シリコンバレーやウォールストリート繁栄の裏側で、時代の変化や世代の移り変わりに取り残された人々と言い換えてもいいかもしれない。
本書はトランプ大統領が2016年に選挙遊説で、ルイジアナ州を訪れたときの様子も記録されている。「アメリカを再び偉大に」と書かれた帽子をかぶって熱狂する支持者たち、反トランプのプラカードを掲げる反対派を「つまみだせ」と叫ぶトランプ氏に拍手を送る参加者たち。無名の候補者を大統領に押し上げた2016年大統領選の熱狂も同時進行で描き出されている。本書がアメリカで出版されたのは選挙直前の2016年9月。ニューヨーク・タイムズ紙は開票直後の11月9日、「トランプ勝利を理解するための6冊」の一冊として紹介した。
ずっしり重い内容で読みやすいとは言えないが、アメリカ社会やアメリカ政治について詳しく知りたい人には必読の一冊だ。読んでいてルイジアナ州の州都バトンルージュ郊外で1992年10月、日本人留学生がハロウィンパーティに行く相手の自宅を間違え、射殺される悲劇があったことを思い出した。シリコンバレーに象徴される自由と繁栄、それとは正反対の地域が今も厳然と存在するアメリカの分断がそれほどまで深刻なことをあらためて認識させられる。
本欄では、『恐怖の男――トランプ政権の真実』(日本経済新聞出版社)なども紹介している。
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