読むべき本、見逃していない?

トラに変身する『山月記』の李徴は本当に存在した!

  • 書名 9つの脳の不思議な物語
  • 監修・編集・著者名ヘレン・トムスン 著、仁木めぐみ 訳
  • 出版社名文藝春秋
  • 出版年月日2019年1月30日
  • 定価本体1950円+税
  • 判型・ページ数四六判・317ページ
  • ISBN9784163909646

 脳が人間にとって重要な器官であることは間違いない。どの部位が何を司っているのかも解明されてきた。しかし、本書『9つの脳の不思議な物語』(文藝春秋)を読むと、未知の領域がまだまだあることを痛感する。あまりに奇妙な事例ばかりが紹介されているので、「トンデモ本」と思いたくなるが、後述する著者の経歴を見て、信じることにした。

 まずは、登場する9人はこんな人たちだ。

ボブ これまでの人生の全ての日の出来事を記憶している
シルビア 絶対音感を利用して、止まらない幻聴を譜面に起こす
ジョエル 他人の痛みや触覚を、自分の身体でも同時に感じる
マター 突然自分はトラに変身したと信じこみ、人を襲いたくなる
ルーベン 色盲だが、出会う人全てにカラフルなオーラが見える
トミー ある日を境に聖人のような性格に激変した元詐欺師
グラハム 問題なく生活できているのに「自分は死んだ」と思い込む
ルイーズ 自分のものだと思えなくなった身体で二度の出産を体験

 嘘をついているのか、芝居をしているのかと思いたくなるような事例ばかりだが、どれも事実だ。

 著者のヘレン・トムスンさんは、ジャーナリスト。英国のブリストル大学で神経学の学位を取得後、インペリアル・カレッジ・ロンドンでサイエンス・コミュニケーションを学ぶ。卒業後は「ニュー・サイエンティスト」誌で8年間編集者を務め、その後フリーに。現在はBBCや「ガーディアン」紙などに出演・寄稿している。

 学生時代から脳に強い興味を抱き、卒業後も「特別な脳」に関する情報を求めて、医学論文を読み漁り、「ジャンピング・フレンチマン」について書かれた論文に出会う。それは1878年、アメリカ・メイン州の森で発見された事例だった。短い命令語で驚かされると、それがどんな命令であっても即座に従ってしまう「ジャンパー」という人たちが存在したのだ。ナイフを投げろと言われれば投げる。踊れと言われれば踊る。見境がないのだ。

 それから著者は非常に特別な脳を持つ人たちに会うため、世界中を旅した。すでに複数の医師や研究者によって検査や脳のスキャンを受け、分析されている人たちばかりだった。科学者とは違うアプローチで、友人として彼らの生活を知りたいという立場で取材に臨んだという。

うなり声あげ、噛みたくなる

 9人全てに触れることは出来ないので、評者が最も興味を持った「トラに変身する男」マターについて簡単に要約しよう。

 「狼化妄想症」という臨床名がついているこの病気は、この100年ほどで定義が広がり、狼以外にもトラ、犬、蛇、ハイエナ、蜂に変身したと思いこむ人もいたという。2015年、アラブ首長国連邦大学の医学健康科学カレッジの学長、ハムディ・モセルヒー氏の紹介で、同国のマターという男性患者に会うことが出来た。

 彼は「狼化妄想症」にかかったり、治ったりを長年繰り返しているという。いまは症状をコントロールできているので、取材を快諾した。彼によると、それが始まると、毛が全部逆立ち、身体全体がかゆくなり、脚と腕が痛くなるという。それから身体中に電気が走るような感じになり、だれかを噛みたくなる。自分ではどうにもできず、トラになるんだということしかわからなくなるという。

 このところ服薬していないというマターは、取材中にもうなり声をあげはじめ、「3人全員を襲いたい」と答えた。医師らが説得すると、落ち着いたので外に連れ出した。再び面談すると、トラになったときに鏡を見た体験についてこう語った。「二つのものが見えました。トラになっている自分の姿と、俺の首をつかんでいるライオンです。わけがわかりませんでした。とても怖かった」。またうなり声が聞こえてきたので取材は打ち切られた。

 「自分の身体が自分のものだという感覚をたゆまずに作り続けているのは脳であることがよくわかってくる」と著者は書いている。

 9人の不思議な脳を持つ人たちに会い、著者は「脳があるときは素晴らしく、あるときは予想もできないような危険なやり方で我々の人生を形作っていることを知った」と振り返っている。

 訳者の仁木めぐみさんはあとがきの中で、トラに変身してしまうマターのエピソードに、中島敦の『山月記』を思い出す人も多いだろう、と書いている。主人公・李徴は現代なら「狼化妄想症」と診断されるかも、とも。

 本書の各章とも、インタビューだけでなく、脳科学の発達の歴史や最新の研究成果が織り交ぜて書かれているので、脳について一通りの知識を得ることができる。また、単なる症例の紹介ではなく、彼らに寄り添う姿勢が感じられるので、読んでいて彼らに共感する気分になってくるから不思議だ。自分自身の脳はどうなっているのだろう、と自分を見つめ直す契機になるかもしれない。  

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