この人の名前を知らない映画関係者はいないだろう。配給会社「パンドラ」の社長、中野理惠さん。内外のマイナーな作品に注目し、積極的に取り上げてきた。マスコミ関係者の中には、中野さんの熱心な売り込みに押されて試写会に行かざるを得なかった人も多いはず。その中野さんの映画人生の回想録が本書『すきな映画を仕事にして』(現代書館)だ。
まずは、「そうだったのか」という話から。今やLGBT(レスビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダー)はかなりの市民権を得ている。でも、ちょっと前まではタブー視されていた。そこに切り込んだ伝説的作品として知られているのが、米国のドキュメンタリー映画「ハーヴェイ・ミルク」だ。おそらく世界で初めて、ゲイであることを公表して公的な職業、サンフランシスコ市の市政執行委員になったハーヴェイ・ミルクのことを描いている。
中野さんは1988年、この作品の日本配給を手掛けた。このとき困ったことがあった。「カムアウト」という英語をどう訳すか。適当な訳が思い当たらない。「打ち明ける」ではちょっと弱い。あれこれ悩んだ末に結局、「カムアウト」をそのまま使うことにした。いまでは日本語として定着している。私たちが何気なく使っている言葉に、意外な経緯があったことを知った。
1950年生まれの中野さんは、早稲田大学の教育学部で学んだ。といっても大学はバリケードに覆われている。これ幸いとばかり、大好きな映画鑑賞三昧。女子学生の就職がままならない時代だったが、何とか竹中工務店の準社員に潜り込む。ところが、そこは男性社会。心身の具合が悪くなり、一年半ほどでやめた。
映画業界で働きたいと思ったが、すでに不況業種になっていた。製作会社などにコンタクトしようにも、たいがい門前払い。たまたま「キネマ旬報」の編集長をしていた白井佳夫さんに電話したら、相手をしてくれた。フランス映画社を紹介され、映画とのかかわりが始まった。
フランス映画社は、日本にフランス映画を紹介し続けた名門の配給会社だ。柴田駿社長のモットーは「良質な観客が良質な映画をつくる」。そこに12年いて、独立する。
その後、多数の映画を配給した。「100人の子供たちが列車を待っている」「レニ」「ナヌムの家」「こねこ」「美しい夏キリシマ」「八月のクリスマス」などなど。
今や大御所監督になり、2020年の東京五輪も撮影するという河瀬直美さんは、早い時期に見出した。1992年に8mm作品「につつまれて」を見たとき才能の萌芽を感じ、山形国際ドキュメンタリー映画祭などへの出品をすすめた。そこで国際批評家連盟賞を受賞し、河瀬さんの監督人生が始まる。中野さんの嗅覚の鋭さだろう。
ベルリンの壁の崩壊やソ連の解体という世界の動きにも敏感に反応した。ソクーロフの「日蝕の日々」など旧ソ連、ロシア映画も多数手掛けている。
従軍慰安婦問題を扱った「ナヌムの家」の公開では、爆破予告や嫌がらせ電話が相次いだ。公開中の映画館ではスクリーンに消火器を噴射された。所轄の警察に連絡したが、警察官が到着したのは3時間以上たってからだったという。
映画以外に出版も手掛けてきた。よく知られているのは女性のためのオリジナル健康手帳『日月ノオト』。全国の文具店や書店に並び、版を重ねた。『東京おんなおたすけ本』も話題になった。
「頼まれると断りきれない性分と、自分の関心がおもむくままに、思いついた企画を口にし、『面白そう!』と反応があると、すぐさまに実現に向けて走り始めてしまう。お調子者なのだ」
自分のことをそう分析しているが、それだけではない。「大学卒業時、男性とは異なり就職試験すら受けられない実態、そしてやっと得た職場での信じられないほどの性差別。そのような性差別がまかりとおっていることへの理不尽さからリブ運動に関わった」とも記している。
本書でちょっと参考になったのは「病気」のことだ。一時期、目の具合が悪くなり、近所の眼科で「失明宣告」を受けた。いくつかの病院を回ったら、その心配はないと言われ、現在も大きな問題が起きていないという。
もう一つ、住職だった父が亡くなり、一週間もお通夜が続いて寒い本堂で毎日座っていたら、足首が猛烈に痛むようになった。総合病院の整形外科に行ったらリウマチだという。湿布やステロイドの投薬を続けたが、よくならない。リブ時代からの知り合いで、いまは鍼灸師をしている田中美津さんに相談したら、民間療法をすすめられた。二年かかったが、今は痛みから解放されたという。このリウマチのくだりは、評者の近親者でも似たことがあったので、まさしく同感だ。整形外科はすぐにリウマチだと診断したがるが、ストレッチなどで随分改善する。
本書は、本文の下段に注釈が設けられ、読みやすい。映画業界の志望者にとっては勉強になるし参考にもなる。就職戦線で苦労している女子学生にとっても、励みになる一冊だと思う。
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