著者の織田さんは、日本を代表する地理学者だった。専門は地理学史、地図学史。京都帝大を卒業して立命館大、京都大教授を歴任した。1974-76年には日本地理学会会長も務めている。
共著者として高校地理の教科書を執筆。一般向けには、『週刊朝日百科・世界の地理』(朝日新聞、1983-1986年)に「古地図散歩」と題して連載した。記憶している人も多いだろう。評者もその一人で、懐かしくなって本書を手にした。
本書『地図の歴史』(講談社学術文庫)は、これが3代目となるロングセラーだ。1973年に単行本として出版。翌年には世界篇、日本篇(大幅加筆)の講談社現代新書2つに分冊、そして今回、新書版が合本された。
なぜ、これほどのロングセラーなのか。出版元によると、一般向けでは地図史を概観できる貴重な存在なのだそうだ。さらに、昨今の地図への関心の高まりも背景にある。ウオーキングやジョギング、サイクリング、山歩きなどを楽しむ人は確かに増えているという印象だ。当然、地図は必要だし、興味もわくだろう、という訳だ。
世界篇は、地図は文字よりも古くからあったことの紹介からスタートする。地図の起源とされるのは、イタリア北部のカモニカ渓谷にある岩壁に描かれたものだ。紀元前1500年ごろの青銅器時代の村落と耕地を示す図で、文字がなかった時代に描かれたとされる。灌がい用水路や高床式家屋、家畜などが詳しく書き込まれている。
文字の発明は、紀元前4千年紀後半の青銅器時代が始まった時期のメソポタミアとされていて、カモニカ渓谷の地図はそれよりも新しい。本書には、文字よりも地図が古いという根拠は示されていないが、当時のカモニカの住人たちに文字があったのなら、当然文字を書き込んだはずだ、と想像するのは難くない。文字入りの地図の方が文字のない地図よりも使い勝手が良いからで、文字は当時なかったのだ、と考えるのが自然なのかもしれない。
地図は以降、中世の暗黒期を経て大航海時代に入り、ポルトガルやスペインの植民地獲得競争による地理上の発見とともに整ってゆく。ヨーロッパが探検で得た知見を自らの勢力下に組み込んでいく過程を目の当たりにするような流れだ。
一方日本は、16世紀まで、握り飯を並べたような、あの行基図が幅を利かせていたというのだから、ちょっと情けない。日本全図としては、例えば武蔵の先に常陸、常陸の先に陸奥があるといった国同士の隣接関係だけが分かる素朴なものだ。ただ、大宝律令に伴う班田収授制のための国郡図も、他方では描かれていて、こちらは方格(方眼)図法による相当正確なものだった。行基図と国郡図との併存を許す当時の日本人の思考とはどんなものだったのか、理解するのは難しそうな気がする。
地理学は以前、人文地理と理学地理に分けられていた。都市、経済など扱う人文地理と、地形、気候などを対象とする理学地理だ。織田さんは人文地理の人だ。だから、さまざまな投影法による地図が考案されたことには、あまり触れていない。投影法を用いて初めて科学的な世界図を描いたプトレマイオスの業績や、船の舵角を決めるには地図上に直線を引けばよいメルカトルの業績などをごく簡単に説明するだけだ。
評者は中学生の時に正距方位図を見て、心底驚いた経験がある。東京(北緯36度)から東へ行けば、ロサンジェルスとサンフランシスコの間(北緯36度)辺りに到達すると思っていたのが、違っていた。そう思っていたのはメルカトル図法の影響だ。それが、本当は南半球に行くというのだから、衝撃だった。しかも、衝撃はそれだけにとどまらなかった。東へ行けば東太平洋で赤道を通過する。その赤道との交点から、今度は西へ行くと、東京には戻ってこられない。赤道上では、西は常に赤道上にあるからだ。これは大変なことになった、と思ったものだ。
正距方位図法は16世紀に英国で考案されている。意外に早い。このほか面積を正しく表すサンソン図法やモルワイデ図法......このようなさまざまな投影法の紹介がないのが、残念と言えなくはない。
地図の歴史を見てやる瀬ないのは、やはり強大な権力によって事実が曲げられたことだ。地球が球であることは、古代ギリシアで実証されていた。エラトステネスが地球の大きさを驚くべき精度で測定、プトレマイオスは投影法を用いて初めて科学的な世界図を描いた。それが中世になって否定される。キリスト教的な世界観が強まり、聖書に書かれたこと以外は認められなかったためだ。
この21世紀、科学の時代にそんなことはないだろうと思いたい。しかし、地球温暖化を否定する強大国のリーダーなどに思い当たるとき、権力の体質は変わらないものだと、つくづく思う。
織田さんは2006年に99歳で亡くなった。類書に『古地図の世界』(講談社、1981年)、『古地図の博物誌』(古今書院、1998年)などがある。
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