純文学が売れない時代にあって、平野啓一郎さんの前作『マチネの終わりに』(2016年刊、渡辺淳一賞受賞)は、20万部を超えるベストセラーとなった。芸術家とジャーナリストという設定の2人の主人公にはモデルがいると著者は序文に書いていたが、本書『ある男』(文藝春秋)も同じように「城戸さん」という弁護士の主人公に会う場面で始まる。本当にモデルがいたのかどうかは定かではないが、著者が一種のモデル小説のしつらえをしたことは留意したい。
彼は自己紹介したが、名前も経歴も実は嘘で、すぐにさきほど教えたのは偽名であること、そして本名を明かした。なぜ、そのようないぶかしい行為をしたのか。それは物語を読みすすむうちに分かる。
城戸は横浜に住む40代の弁護士で、裕福な家庭に育った妻、息子と暮らしている。金沢で生まれた城戸は、高校時代に日本国籍に帰化した在日三世で、堅実な資格を取るよう親に促されて弁護士になった。
7年前に離婚調停の代理を引き受けた谷口里枝から久しぶりに連絡を受ける。離婚後、里枝は郷里の宮崎県の小都市に戻って再婚。その相手の「谷口」という男性が伐採現場の事故で亡くなったが、親族に連絡したところ、まったくの別人だったことが判明したという。一児まで設けた夫はいったい何のために別人の名前と経歴を語っていたのか。里枝から依頼を受けて城戸は調査を始める。
「谷口」になりすました「X」は死んだが、本物の谷口はどうしているのか? そして「X」の身元は? 戸籍交換を仲介するブローカーが横浜の刑務所に収監されていることを知り面会、やりとりするうちにある名前が浮かび上がる。
価値観の違う妻とのすれ違い、ヘイトスピーチや排外主義へのいらだちなど城戸自身のアイデンティティーも揺れていた。やがて城戸自身が夜のバーで「谷口」を名乗り、その過去を語ることもあった。著者に会ったのはその頃なのだろうか?
戸籍交換を重ねる人々とその人生が語られる。タイトルの「ある男」とはいったい誰なのか? 主人公の城戸の行動を追いながら、さまざまな男の生き方がトレースされる。あまりに錯綜して、誰が誰なのか頭が混乱するが、これも著者の巧妙なしかけだろう。
多くの取材協力者への謝辞を捧げているが、物語の構造、人物の来歴など、すべて実人生をなぞったような堅牢なつくりをしている。『決壊』『マチネの終わりに』と著者の進境は著しく、本作も間違いなく代表作の一つとなるだろう。モデル小説の構えを借りたのも著者の深謀だ。
著者は個人ブログに登録すると無料で本作を少しずつ読むことができるように誘導し、その後、「文学界」(2018年6月号)で一挙に公開、このたび単行本化した。ファンをネットで囲い込むというネット時代にふさわしい展開。前作の20万部もうなづける。
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