新聞の書籍広告で本書『京大生・小野君の占領期獄中日記』(京都大学学術出版会)を見つけたとき、奇妙な感じがした。それまで大学生の獄中日記と言えば戦前、治安維持法で捕まったケースしか思い浮かばなかったからである。
どうして「占領期」なのか。「小野君」は何をしたのか。実際に手に取ってみて、いくつかのことを知り、改めて戦後史の空白に思いが及んだ。
本書の主人公は、歴史学者(中国近代史専攻)の小野信爾(1930~ )さん。花園大学文学部教授、文学部長、副学長などをつとめた。
小野さんは49年、京都大学文学部に入学。51年2月22日、京都・下鴨警察署近くで「アメリカの朝鮮戦争に協力するな」という趣旨のビラを撒いたことで、GHQの占領政策違反に問われ、軍事裁判で、重労働3年・罰金1000ドルの判決を受けた。文学部の同級生、教授らの減刑嘆願署名など救援活動もあったが、サンフランシスコ講和条約が発効する52年4月28日まで、1年2か月あまりを獄中で過ごした。その獄中で書いていたのが、本書のもとになっている日記だ。復学後は中国近代史研究にすすみ、学究の道に戻った。
この事件の一つのポイントは、なぜビラを撒いただけで重刑を受けたのかというところだろう。本書によれば、当初は地方公務員法違反で捕まった。「アメリカの朝鮮戦争に協力するな」という訴えが、「何人も公務員に怠業を扇動してはならない」という同法37条に触れるというわけだ。かなりの拡大解釈であり、小野さんは起訴できるわけがないと楽観視していた。確かに同法での起訴は無理と判断されたが、新たに占領法規政令第325号が適用され、GHQの軍事占領裁判所に送られる。連合国軍による日本占領目的を妨害したという罪に問われたのだ。
通称「ポツタム勅令」といわれた占領目的阻害行為処罰令。そんな法律があって、実際に適用されていたのだ。占領というのは当時の日本にとって重い現実だった。
当然ながら、京大の中では様々な救援の運動が起きる。小野さんは獄中で大学当局から退学を勧告されていた。学生大会では「大学は退学勧告を撤回し、保釈に努力せよ」という提案が満場一致で可決される。「小野君へ」という詩がつくられ、それを学生大会で読み上げたのはのちに俳優として活躍する文学部の学生、戸浦六宏(1930~93)さんだった。
戸浦さんは同じく京大出身の映画監督、大島渚さんの作品に、しばしば起用された。学生運動を回顧した問題作として注目された「日本の夜と霧」(1960年)にも登場している。自身の体験も踏まえた演技だったというわけだ。
本書には高橋和巳や小松左京などの懐かしい名前も出てくる。小野さんが京大に入って属したサークルは「歴史学研究会」。隣の部室が「京大作家集団」だった。そこに高橋、小松がいて侃侃諤々の議論をしていたという。破防法反対運動のときは、高橋らが総長室前でハンストに突入、学内で緊張が高まった。
ページをめくると、戦後間もないころのヒリヒリした空気が一気に蘇る。京大といえども、今のキャンパスには感じられないものだろう。本書の中心になったのは、小野さんの少し後輩にあたる西川祐子・元京都文教大学教授ら。小野さんの妻で、元京大人文研教授の小野和子さんが「あとがき」を書いている。自宅にこんな日記があったことは長いあいだ知らなかったという。
小野信爾さんは10年ほど前の脳梗塞の後遺症で体が不自由。娘の小野潤子さんから、「お父さん、いまこれ読んでどういう気持ちですか」と尋ねられた小野さんは、車いすに座ったまま顔を赤らめたそうだ。数秒後「青春、恥多し」の言葉が漏れたようだったが、よく聞き取れなかったと、西川さんは記している。
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