先日亡くなった星野仙一さんには共著を含めて20冊ほどの著作がある。そのうちの半数近い作品が阪神監督として、あるいはその経験を振り返って著されたものだ。なかでも同球団を18年ぶりの優勝に導いた直後の2003年10月に出版された「夢 命を懸けたV達成への647日」では、一球団の監督としてだけではなく野球界を盛り上げたいという思いを熱く吐露する一方、自らの健康についても率直に語っていた。
星野さんは中日で2回計11シーズン、阪神で2シーズン、楽天で4シーズン監督を務めた。リーグ優勝はそれぞれ2回、1回、1回。楽天での優勝は東日本大震災の年であり、クライマックスシリーズ(07年から導入)を勝ち上がり日本一を極めただけに印象が強いが、務めた期間に応じた優勝確率という点では阪神での采配が最も成果を挙げたともいえる。
阪神球団は星野さんに監督を要請する前に、野村克也さんを迎えて再建を託し低迷を脱しようとしていたが、それがうまくいく前に野村さんは退任せざる得なくなり、後任候補にあがったのが星野さんだった。野村さんはこれまでの著書や、また星野さん死去に際してメディアに寄せた追悼文であらためて、自身が球団側に星野さんを後任に推薦したと述べている。
野村さんが推薦したことを知ってか知らずか、本書で星野さんは野村さんの土台作りを評価する一方で、それまでの球団の経営などについてはけちょんけちょんだ。無知、無為、無策に「胸を衝かれる」とまで述べ、そのことを糧に、持ち前の馬力でフィールド内外を問わず改革にあたり、その過程がつづられている。もっとも本人は「わたしはこの2年間特別なこともはなばなしいこともやっていない」と思っているという。
星野さんの監督1年目の02年は4位で、それ以前の1997年~2001年の5年間は5位、6位、6位、6位、6位。2年目の03年に18年ぶり優勝を遂げ、以後04年~08年の5年間は4位、優勝、2位、3位、2位。星野さんが監督を務めた2年間をきっかけに、少なくとも「無知、無為、無策」は改められたとみて間違いないだろう。
グラウンドでは闘将ぶりを発揮してファンにアピールする一方で、見えないところではゼネラルマネジャー(GM)的に長期的な視野からの提案をしてきたことも明かす。人材の育成に心をくだき、すでに自分の後継に位置づけられていた岡田彰布二軍監督(当時)について次期監督にふさわしいと思われる3通りの処遇を提案。当人とのやりとりで一軍スタッフに入ることが決まり2年間、岡田さんは星野さんの下で学び監督業を学んだ。その成果もあって、岡田さんは監督1年目の04年に4位のあとの05年に優勝と、星野さんと同じ道をたどった。
星野さんは03年の日本シリーズ終了後に「健康上の理由」により、阪神監督の退任を表明。本書では阪神での2年間は「命懸けだった」と明かしている。高血圧症の持病があり「試合開始と同時に心臓の方にも『プレーボール』がかかってしまう」毎日。それでも「試合に勝った時は『ゲームセット』になると、ベンチから立ちあがってコーチ陣と次々に握手をする。よくふらふらっとしてそのへんに仆れ込みそうになるのはうれしい瞬間だ」と述べている。
どこに行くにも携帯用血圧測定器が手放せない生活。脳梗塞や狭心症におびえながら指揮を執り、時季によっては花粉症ともたたかい、合い間をみて歯のインプラント治療にも通っていた。
東京都内でクリニック院長を務める星野さんの主治医は、健康に少なからず問題を抱える星野さんが「監督生活を続けること、また阪神の監督になることをあまり喜ばなかったひとり」で、遠回しに静かな生活を送るようアドバイスしていたという。もちろん「燃える男」「闘将」と呼ばれた星野さんがそれをそのまま受け入れるはずもない。こう啖呵をきったという。
「人間、死ぬ時はなにしたって死ぬんや。みんな喜ばせたって、胴上げの最中、パカっと逝ったら最高じゃ。そしたらみんがゆうてくれるわ。『ああ、惜しい人を亡くしましたね』って」
ほんとうに、惜しい人を亡くしたものだ。
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