1967年10月8日、京都大学文学部一年生の山崎博昭さんは、佐藤栄作首相の南ベトナム訪問を阻止しようとした第一次羽田闘争で死去した。享年18歳。警察や機動隊との衝突で、学生側に死者が出たのは60年安保闘争の東大生、樺美智子さん以来二人目ということもあり、衝撃が大きかった。
本書『かつて10・8羽田闘争があった』は、その事件から50年を記念して、かつての関係者らが賛同者を募り、山崎さんを追悼、出版にこぎつけたものだと聞く。
この追悼運動は「10・8山崎博昭プロジェクト」と名付けられ、折に触れ、メディアでも紹介されていた。インターネットで賛同者を集めていたので主宰者のサイトを覗いたことがある。賛同者の「実名」が肩書入りで何百人もずらっと並んでいた。
山崎さんが大阪府立大手前高校、京都大学という関西の秀才コースを歩んでいたこともあるのだろう。賛同者の現職には、医者や弁護士や大学教員など社会的地位の高い人が目立った。中には、「元〇〇大学全共闘」などと、学生運動をしていたころの所属を公表している人もいた。こうして実名でカムアウトしている賛同者は、少なくとも今も、当時のベトナム反戦の活動に矜持があるのだろうと推測した。
確かにベトナム戦争は、歴史的に見てもアメリカの旗色が悪い。南ベトナムの独裁政権に過度に肩入れし、ナパーム弾や枯葉作戦などによる焦土戦術は国際的に批判を浴びた。典型的な「弱い者いじめ」の構図となり、米国内はもとより世界各国で反戦運動が高まる。日本でも、ベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)などが活発に活動、市民レベルでも反戦機運が盛り上がった。広大な米軍基地を抱える沖縄はまだ米国の施政権下にあり、より直接的に戦争に関わっていた。そうした状況のなかで起きた「10・8」だった。
結局のところ、米軍は敗退し、多数の犠牲者を出したベトナムから撤退した。勝った北ベトナムが南ベトナムを吸収する形で現在のベトナムがある。サイゴン市と呼ばれていた南べトナムの首都は、北ベトナムのリーダーの名をとってホーチミン市になってしまった。「ベトナム反戦」の主張は、歴史的には勝ったことになるだろう。そのあたりも、追悼プロジェクトの推進力になったのかもしれない。
本書では、様々な関係者が山崎さんや当時の闘争の思い出を語り、また「50年目の真相究明」として死因などの調査報告も掲載されている。
兄の山崎建夫さんは弟の18年余の生涯を振り返っている。父親は製帽所で生地の裁断の仕事をしたり、小さな町工場に勤めたりしていた。母は内職で家計を支えた。典型的な大阪の庶民家庭だった。小学校高学年になって、ようやく市営住宅で暮らせるようになり、うれしかったという。高校、大学は奨学金のおかげで進学できた。
かなりの秀才だったのだろう。名門大手前高校へ進めたのは中学で山崎さん一人だけだった。高校時代に早くも日韓条約反対のデモに参加している。それでも現役で京都大学に合格しているから、昨今の進学塾育ちの受験秀才とはちょっと違う。
本書への寄稿者には有名人も多い。芥川賞作家の三田誠広さんもその一人だ。山崎さんとは高校の同学年だった。当時はデモがあると、高校から50人ぐらいが参加していた。三田さんもデモに参加していたので、山崎さんの顔は知っていたが、名前は知らなかったという。
事件のあと、山崎さんが「ドストエフスキーのような小説を書きたい」とノートに記していたということを知った。作家になった三田さんはつづる。「彼は自らの人生を、一つの物語として、作品として、この世に遺したのだと思う」。
やはり同級生だった詩人の佐々木幹郎さんは「私の中の『10・8』は、50年たっても、なかなか『思い出』になってくれない」と苦渋を吐露する。元NHKアナウンサーで作家の下重暁子さんや、元東大全共闘議長の山本義隆さんは大手前高校の先輩にあたる。後輩の死をどう受け止めたか、心境などを寄せている。
京都大学の同期生では、社会学者の上野千鶴子さん。事件を受けて追悼デモがあり、それが初めて参加したデモになったという。同じく京大の同窓では哲学者の鷲田清一さんも「ちりちりする思い出」を語っている。
作家の高橋源一郎さんは、灘高校の二年生だった。事件の翌日、友人たちが生徒会室に集まったが、みんな無言だった。数日後、「民主主義と暴力」という論文を生徒会誌に載せるために書き始めた。そして年明け、17歳になり、生まれて初めてのデモに行ったそうだ。
このほか何人かの67年「10・8」参加者も、当日の様子などを回顧している。その中には、現在、八王子の医療刑務所に在監中の重信房子・元日本赤軍最高幹部もいる。頭を割られた学生が続出、通りがかりの車を止めて負傷者を搬入、病院に運んで治療を受けさせる係をしていたそうだ。
当日はデモには参加していないが、同世代の歌人、福島泰樹さんや道浦母都子さんもそれぞれが受けた衝撃を書いている。
事件翌年の68年になると、東大や日大では学内問題から学生側と大学側との対立が激化、それがあちこちの大学に飛び火して全共闘運動が動き出す。今年はあれから50年。「10・8」が、全共闘運動の導火線になったことは否定できないだろう。長年沈黙を続ける日大全共闘の議長だった秋田明大さんも、珍しくこのプロジェクトには賛同者として名前を連ねている。有名無名を含めて多数の関係者の寄稿で埋まる600ページを超える本書は、戦後社会史的に見て貴重な記録になっているともいえる。
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