日本を代表する2人の作詞家、阿久悠さんと松本隆さんに注目し「2人が交差した瞬間を求め、その前後7年を描く『現代史』」。ともに数々のヒット曲を手がけた2人の取り組みを掘り下げて、昭和の「歌謡曲黄金時代」を振り返る。
阿久さんは広告会社勤務から放送作家となり1970年前後に作詞家に。71年に「また逢う日まで」(尾崎紀世彦)がレコード大賞を受賞して「阿久悠の時代」が幕を開ける。80年代に入り阿久さんのヒット曲が減り、時代の変わり目が見え始める。81年、松本さんの「ルビーの指環」(寺尾聰)がレコード大賞を受賞した。
「また逢う日まで」がレコード大賞を受賞した71年、日本テレビのオーディション番組「スター誕生」が始まっている。阿久さんは同番組に企画段階から関わり、同番組の"合格"したピンク・レディー、桜田淳子、岩崎宏美らが歌う曲の多くに詞を書いて文字通りスターを誕生させた。
スタ誕出身の大物歌手といえば、まっさきに山口百恵の名前が挙げられるが、彼女にはレコード会社の有名プロデューサーがついていため距離を置く。百恵はのちに、阿久さんがプロデューサー的にて関わったピンク・レディーや沢田研二らの強力なライバルに成長する。
阿久さんは70年代、「また逢う日まで」に続き、76年「北の宿から」(都はるみ)、77年「勝手にしやがれ」(沢田研二)、78年「UFO」(ピンク・レディー)とレコ大3連覇を果たし、さらに、80年にも「雨の慕情」(八代亜紀)で5度目の受賞を実現した。
その翌年の81年に、松本さんの「ルビーの指環」がレコ大を受賞するが、作詞家としての活動を開始したのは阿久さんと同時期。60年代末に細野晴臣さんらとバンド「はっぴいえんど」を結成して、同バンドの曲の詞を書いていた。そしてグループ解散後に音楽プロデューサーを経て作詞家に。74年のアグネス・チャン「ポケットいっぱいの秘密」が最初のヒット曲になった。
71年に「阿久悠の時代」が始まり、それを追いかけオーバーラップするように4年後の75年、「松本隆の時代」が本格的に幕を開ける。この年の12月、太田裕美の「木綿のハンカチーフ」が発売。歌詞は4番まであり恋人同士の男女がお互いに語りかける展開が新しい試みとして注目を集め、翌76年にヒットチャートをぐんぐん上昇した。同時期に阿久さんの76年レコ大曲「北の宿から」がリリース。売上枚数は2曲ほぼ同じだったという。
70年代後半、2人の時代が並んで続き、著者が探し求めた「2人が交差した瞬間」は81年に訪れていた。3月にピンク・レディーが解散し、阿久さんは「大人の歌」の方に向いていく。7月、松本さんが松田聖子の曲に初めて詞を提供した「白いパラソル」がリリースされヒットし、以降続けて聖子の曲の作詞を行っている。そして松本さんの「ルビーの指環」が、この年のレコ大を獲得した。
近年、昭和歌謡がクローズアップされてブームになっており、音楽番組で70~80年代のヒット曲がカバーされる機会も多く、メディアでは音楽関係者や愛好家がその背景や理由などについて見解や持論を披露している。それらによると、90年代のJポップを飛び越えて、それより前の時代の昭和歌謡が人気になることの理由の一つとして、歌詞の構成や使われる言葉が巧みで、より深く共感できることが指摘されている。本書では、阿久さんの「阿久悠作詞家憲法」や松本さんの作詞家宣言などにもふれ、2人の作詞に対するこだわりついても述べている。
17年は阿久さんの生誕80年、没後10年の節目の年で、松本さんは紫綬褒章を受章。久しぶりにそろって注目された年になった。
当サイトご覧の皆様!
おすすめの本を教えてください。
本のリクエスト承ります!
広告掲載をお考えの皆様!
BOOKウォッチで
「ホン」「モノ」「コト」の
PRしてみませんか?