土光敏夫さんは「ミスター合理化」と呼ばれるなど、会社再建に手腕を発揮した経営者、また、後に実現する行政改革の推進役として知られる。没後20年近くが経過したが「メザシの土光さん」のフレーズは、ある世代以上の記憶には残っているはずだ。本書は、広く行きわたり浸透したそのフレーズが果たした"マジック"についても触れている。
著者の伊丹敬之・橋大学名誉教授は、本書を自身にとっての「『戦後名経営者の評伝三部作』(と自分で勝手にシリーズ化している)の最後の本となるもの」と、16年3月10日付でウェブ公開された「[週刊]理科大MOT神楽坂コラム」で述べている。伊丹教授は当時、東京理科大学大学院イノベーション研究科で技術経営専攻(MOT)の教授を務めていた。三部作の3人はいずれも技術者出身であり、これまで、本田技研工業創業者の本田宗一郎さん、川崎製鉄(現JFEホールディングス)初代社長、西山彌太郎さんの評伝を書いている。
週刊ダイヤモンド(2017年10月28日)の「私の『イチオシ収穫本』」のコーナーで、本書を選んだ双日総合研究所チーフエコノミストの吉崎達彦さんは、単なる評伝ではなく伊丹教授による経営学の本と評している。
土光さんは東京高等工業高校(現東京工業大学)卒業後、1920年(大正9年)に東京石川島造船所(後に石川島重工業から石川島播磨重工業、現IHI)に入社しタービン技術に取り組む。辞書を片手に外国の文献を読み、1日5時間睡眠のハードワークをこなしてこの技術を極め、子会社の機械メーカー社長に。1950年(昭和25年)経営危機に見舞われた本社(石川島重工業に変更)に戻り社長に就任、徹底した合理化により経営再建を成功させた。
その手腕が高く評価され1965年(昭和40年)に、やはり経営危機に陥っていた東芝の再建を託されて社長に就任。東芝再建がひとまず落ち着くと1974年(昭和49年)に日本経済団体連合会(経団連)の4代目会長に。前年の第一次石油危機後の経済安定化などに努め、今度は、当時の中曽根康弘行政管理庁長官に請われて1981年(昭和56年)、第二次臨時行政調査会会長に就いた。
著者は、石川島重工業再建、東芝再建、臨調を土光さんに持ち込まれた「三つの難題」と位置付け、その"勝敗"を「2勝1分け」と判定する。「1分け」は東芝再建。土光さんの経営スタイルは「直接話法的手段」が主であり、そのため対面による運営を重視。それが人事に"情"が入り込む余地を生み不採算事業立て直しなどで詰めがあまくなったのではないかとみる。
直接話法を重視するスタイルは、土光さんの人間味を表すものなのだが、本書では、指示を人を介して発する「間接話法的手段」が多かった松下幸之助の松下電器(現パナソニック)がいちはやく事業部制を導入して、事業ごとに業績管理を徹底させ自主責任体制を整えたことと比較して述べている。
臨調時代、行政改革の議論が佳境に入ったころ、NHKが土光さん"素顔"を追う企画でカメラは自宅にも入り、夕食の様子も撮影して放映した(1982年)。主なおかずはメザシで副菜は自宅の庭で採れた野菜。それは普段のままで、パフォーマンなどではなく、行革に取り組む土光さんへの社会的認知を広めようと提案された経団連事務局の作戦に土光さんがしぶしぶ応じたものという。
双日総合研究所の吉崎さんは「われわれは土光敏夫という人物を記憶に留めるべきであろう。西郷隆盛や伊能忠敬などと同様に、かつてこういう日本人がいたという事実は、それだけで明るい気持ちにしてくれる」と述べている。
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