仏教は女性差別の宗教である、といわれることがある。本当にそうなのか。著者の植木雅俊さんが仏教研究を志したきっかけに、そんな俗説への疑問があった。
ひとくちに仏教と言っても大乗、小乗、さまざまな宗派があり、女性観には大差がある。研究を進めると、「女性差別」の根拠とされる仏典は、釈尊滅後、権威主義化したいわゆる小乗仏教のものであり、また釈尊が平等を説いていても漢語段階で改変されたものであることがわかった。植木さんは時代をさかのぼり、釈尊のなまの言葉により近いとされるパーリ語の原始仏典をひもとく。
市井の仏教研究者、数々の受賞歴
たとえば『シンガーラへの教え』と言うパーリ語の仏典がある。ここでは「夫は妻に五つのことで奉仕しなければならない」と書かれている。それが『六方礼経』として漢訳されると、奉仕するのは妻の側に変わり、「婦(つま)が夫に事(つか)うるに五事あり」と、正反対の話になる。当時の中国は儒教社会。家父長制に適応するようにすり替えられてしまい、それが日本にも伝わっていたことがわかった。
1951年生まれの植木さんは、中年になってから本格的に仏教研究に取り組み、このところいくつもの出版関係の賞を受賞している。
九州大学の理学部出身。もともと仏教に関心があり、会社員生活をしながら一念発起、40歳から本格的にサンスクリット語なども勉強した。日本のインド哲学研究の最高権威、中村元・東大名誉教授が創設した「東方学院」に10年近くコツコツ通い、2002年お茶の水女子大で「仏教におけるジェンダー平等の研究――『法華経』に至るインド仏教からの 考察」で博士号を取得。その論文は04年、『仏教のなかの男女観――原始仏教から法華経に至るジェンダー平等の思想』(岩波書店)として出版された。
08年の『梵漢和対照・現代語訳 法華経』(上・下、岩波書店)で毎日出版文化賞。11年に中公新書で『仏教、本当の教え――インド、中国、日本の理解と誤解』、13年には『梵漢和対照・現代語訳 維摩経』(岩波書店)で「アカデミズムの外で達成された学問的業績」に対して送られるパピルス賞を受賞。15年には『サンスクリット原典現代語訳 法華経』(上・下、(岩波書店)を出版するなどこの10数年、立て続けに仏教関係で画期的な出版を続けている。
解説を先に読むと理解が進む
最新作で取り上げた『テーリー・ガーター』は、植木さんが仏教の男女平等思想を研究する中で最も重視した仏典だ。テーリーとは女性出家者(尼僧)の長老、ガーターとは「偈」(げ=詩)のこと。合わせて「長老の尼僧たちの詩」という意味で、紀元前3世紀にインドからスリランカに伝えられたパーリ語の原始仏典の一つ。72人と1グループの尼僧たちが詠んだ522の偈が収録されている。
尼僧の出身は王族が23人、豪商が13人、バラモン階層が18人、元遊女らが4人など。老いて美貌の衰えを嘆く女性、夫や子供に先立たれた女性、母と娘で夫を共有することになり苦悶する女性、自殺を図ろうとした女性など様々な悩みを抱えた女性たちだ。いずれも釈尊の弟子と なって教えに従い、安らかな境地に達したことを「偈」で語る。
パーリ語からの逐語訳本としては、すでに中村元による『尼僧の告白――テーリーガーター』(岩波文庫、1982年)がある。ほぼ本文訳のみだが、植木さんの新版は、本文の訳のほかに解説が100ページ以上あり、懇切丁寧な作りとなっている。植木さん自身、「はしがき」で、「インドの二千五百年も前の詩であり、文化の違いから現在の私たちには理解し難い表現も多々あるので、先に『解説』を読んでから『テーリー・ガーター』の本文を読まれた方が理解しやすいかと思う」とアドバイスしている。
『テーリー・ガーター』は、宗教関係以外でも、看護、医療、ジェンダー論との絡みで引用されることがある。本書は今後、そうした様々な分野でも基本的なテキストとして利用されることになりそうだ。