(連載タイトル)ローマで居候
イラストレーターのなかざわともさんが「ちょっとだけローマ暮らし」をつづる連載『ローマで居候』。現地で出会った人々やおもしろい出来事をお届けします。
ローマ・フィウミチーノ空港に着いたのは夕方6時。太陽はまだ高く、日陰を際立たせる強い光を放っていた。湿気を含んだ熱風を、歓迎を受けているような浮かれ気分で大きく吸い込んだ。私は今年の夏をローマで過ごす。
恥ずかしながら志や目標があるわけではない。コロナ禍で海外旅行を控えていた反動で、どこか遠くの国で、少しでもいいから暮らしてみたいと思っていたのだ。なるべく出費をおさえるために居候先を探していたところ、いいかげんな下宿人を受け入れてくれたのがローマの外れに一人で暮らす、70代後半の日本人女性Tさんだった。
家はローマ県北郊外に位置するサクロファーノにある。ローマの中心地から車で30分、電車とバスを乗り継いで1時間ほど。人口1万人に満たない小さな集落で、広々とした農地や牧草地の隙間にポツポツと家が顔を覗かせるような、のどかな景色が広がっている。
Tさんの家は3階建ての広々とした一軒家で、数年前まで人に貸していた1階部分を私が使わせてもらうことになった。窓の外には日陰でくつろぐ野良猫や、隣家の馬が見える。年々強まるイタリアの日差しは、バラやトマトの苗さえ焼いてしまうようになったそうだ。何かを待つ人影のような糸杉や、伸びすぎたキノコのようなカサマツは、より太陽に近づこうとするかのようにヒョロヒョロと空に向かって伸びている。豊かな緑に包まれて、私は3ヶ月間、Tさんの家でお世話になる。
Tさんは私の祖父母の知人である。盛岡出身で、上京して幼稚園で勤めた後に建設会社に転職、祖父とはそこで出会ったそうだ。27歳のころ、Tさんは大きな失恋をきっかけに思い立ち、元々習っていた声楽をより深く学ぶために本場ローマにやってきた。2年間みっちり学んで帰国する予定だったが、現地で出会ったイタリア人男性と恋に落ち、結婚。そしてローマに暮らして45年以上になる。
7年前に夫を亡くし、大きな家を小柄な彼女が一人で守っている。ドラマチックで、華やかに聞こえる人生だけど、交通も通信もハードルの高い当時の海外暮らしは、たいへんな苦労があったことだろう。結婚してからは夫の歯科医院を手伝い、身を粉にして働いたという。イタリア特有の家族との距離感で、お姑さんとの関係にも悩まされた。
「だって仕方ないじゃない、この国で暮らすって決めたんだものねぇ」
そう言ってあっけらかんと苦労話も笑って話す。Tさんは明快な人だ。
料理の味付けも、シンプル。朝晩は軽く、昼食をしっかり摂るスタイルで、ササッと料理を出してくれる。サラダの味付けはオリーブオイルとレモン、ジャガイモと玉ねぎを弱火で炒め、ローズマリーを加える。自家製のトマトソースで海老を煮込んで、スパゲッティと和える。どれも素材の味が活かされた絶品である。レモンやトマト、バジルは庭で採れたもので、とても瑞々しい。
私たちはいつもタンクトップにショートパンツといった、寝巻きのようなリラックスした格好でテーブルを囲む。家には女が2人いるだけなのだ、格好にはどんどん無頓着になってしまう。1時間ほどかけてゆっくりおしゃべりをしながら、Tさんが用意してくれた食事を毎食ごちそうになっている。Tさんから、イタリアと日本の話が、時間や場所をあちこち飛び越えて繰り広げられる。私は料理とともに、彼女の話を楽しんでいる。
「昔、チンパンジーを飼っていたことがあるの。」
そんな驚きのエピソードも、Tさんはケロリと語る。旅行好きの夫がアフリカで食材として売られている赤ちゃんチンパンジーを可哀想に思い、ローマに連れ帰ったのだ。チンパンジーはジョルジュと名付けられた。
家には実際に使っていた大きな鉄製のケージが残っていて、Tさんが見せてくれた写真には、夫婦とチンパンジーの仲睦まじい3ショットが収められている。ジョルジュはTさんが作った服を人間のようにキチンと着こなしていた。おしゃれなチンパンジーである。大きくなったジョルジュは、Tさん夫婦の手を離れ、野生動物園に保護してもらうことになった。夫婦が動物園を訪れるとすぐに2人に気がつき、恋しげに鳴いたという。
夫とジョルジュに先立たれ、今は家にはTさんしかいない。毎朝Tさんはふたりの写真立ての前に、1杯の水を供えるという。Tさんが語る面白おかしい話から勝手に、私も彼らに親しみを抱いている。一風変わった居候先に恵まれた。
3ヶ月なんてあっという間に過ぎていくことだろう。この連載のチャンスをいただけたことを燃料に、好奇心を絶やさずに過ごしたい。
最後に、今回学んだイタリア語のフレーズを紹介しよう。
Facciamo domani! (ファッチャーモ ドマーニ)→明日にしよう!
もともとは旦那さんの口ぐせ。共に暮らすうちにTさんも「細々したこと・面倒なことは放っておいて明日やればいいじゃない」と思うようになったそう。2人のざっくりした朗らかな生活を想像させる。
■なかざわ ともさんプロフィール
1994年生まれ、東京在住のイラストレーター。学習院大学文学部卒。セツモードセミナーを経て、桑沢デザイン研究所に入学。卒業後、イラストレーターとして活動を開始。
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